ABC diary

学校教育について問題提起を行います。

背の順の廃止

背の順 廃止

教員から見た意味合理性があっても、

身長で場所を強要するのは、人権侵害。

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この記事は、主に、

前置き

主旨

1.論点にご注意ください。

2.教員視点を正義とする危険性

3.よくある返答に対する答え

4.放置すれば、これから先も問題は起きる

5.どちらが正しいかを主張したいのではありません。

6.まず先に人権を考えてください。

7.私の受けた被害

 

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記事の中心

A.「主張」

B.「背の順の4つの問題点」

C.「場所による感じ方の違い。」

D.「何故、苦痛なのか。」

E. 概念と並べ方による侵害のメカニズム (超重要です。)

F.「何故、理解されないのか。」

G.「”例え”による説明。」

H.「改善」

 

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I.「背の順に関する補足説明12個」

 1.背の順に対して、教員から見た意味・合理性として挙げられるもの

 2.名簿順と背の順は無関係

 3.「前方の視認性の配慮」としての背の順の実態

 4.目的と手段

 5.教員から見た意味・合理性よりも学生の人権を優先してください

   6.類似問題の解決方法 

      I. 各学校に生徒が気軽に提案・主張のできる環境を作る

  II. 学生の意見を聞き、生徒の人格を尊重できる教員増やす。

    学生が取る言動の理由を考える。

  Ⅳ. 問題を抱えている学生は、

    許可なく気軽に欠席・早退etcすることができるようにする。    

  Ⅴ. 不登校は、問題行動ではないです。

  Ⅵ. 学校には、人権侵害等の問題が多々存在すると知ってください。

  Ⅶ.  拒絶権・離脱権を認める。

  Ⅷ. 教育・指導と称しての、暴力・暴言・恫喝は、本当に危険です。

  Ⅸ. 本音を自己主張できるようにする。

  Ⅹ. 問題は、カウンセラーに対応してもらう。

      . フリースクールオルタナティブスクール・通信制などを勧める。

 

  7. 背の順は、卑劣の多重構造

    8. 背の順で一番前は、不名誉

  9. 教育現場で表に出てこない理由

  10. 背の順を教員の主観で捉えない。

 11.背の順は、デリカシーがない

 12.廃止にこだわる理由

 

J .「最後に」

 

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記事の中心 - E. 概念と並べ方による侵害のメカニ (超重要です。)と、H.「改善」が重要です。

いくらか、私の考えた改善策を載せておきました。

また、必要ならば、さらなる改善策も考えます。

 

この記事は、教育会議・教員研修で提起する、各学校に通達する、などにおける

資料として全文ご自由に引用していただいて大丈夫です。

 

教員の方に、学校の習慣の問題提起を行っても、中々共感していただくのは難しいです。

ですから、長文によって可能な限り詳しく説明しました。

 

内容は各項目ごとに区切っています。

内容が似ている項目があります。

これは、角度を変えて説明しているからです。

 

人の認識にはその人個人の経験から作り出されたバイアスが存在します。

どれだけ詳しく文章で説明しても、自分が思うように伝わらないです。

私は、この記事をご覧いただく方に、

背の順のような人権侵害の習慣がどれだけ人の精神を苦しめるか知っていただきたく思います。

だから、この記事を、軽く扱わないでください。

 

相当な苦痛だから、長文の記事を書いて詳しく説明しているのです。

どうでもいい・大したことないならば、わざわざ記事にして、教育委員会に送りません。

このようにして、背の順の問題提起がなされている時点で、

改善する必要がある問題だと捉えてください。

 

 

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  先にお詫びを申し上げます。

   幾らか、失礼な発言をしていることを先にお詫びします。

 この記事において、教員の方々がいくらか気を悪くされる部分があるかもしれません。

 また、そのように受け取られる文章を書いているかもしれません。

 私は、学生時代、学校が苦痛でした。

 だから、学校・教員に不信感があります。

 その気持ちは偽れないです。

 ですから、無意識に、教員の方々の気を、悪くしてしまう文章を書いているかもしれません。

 

 なので、先にお詫び申し上げます。

 気を悪くなされたら、申し訳ございません。

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以下、行動に移していただきたいことを2つ挙げます。

 

  1. この記事をご覧いただいた後に、

   各小学校・中学校・高校 に背の順の廃止の通達・拡散をしてください。

   また、教育会議・教員研修etcで問題として取り上げ、

   背の順および類似の問題が起こらないように対策してください。

   より具体的な行動をお願いします。

     具体的には、

     まず、 背の順を使うのはやめて、記事の中心 - H.「改善」に挙げた方法を用いてください。

    また、背の順のような表に出ない問題についての対処として、

  背の順に関する補足説明12- 6. 類似問題の解決方法 を用いてください。

 

 

2.  現在、学校では多くの人権侵害がおきています。

   それが、教員によるものであることは少なくありません。

   教員が正しいと思っていることが、いかに狭い範囲のことかを知ってください。

   教員の視点でのみ校則・習慣を決めることの危険性を認識してください。

   教員の都合だけで決めたら、人権侵害がおきます。

   教育委員会・教職員は、学校が楽しかった人たちの集まりです。

   だから、教員内で多数決でどうするか決めても、保留であったり、破棄になるでしょう。

   それでは、外部からの問題提起が意味をなさなくなってしまいます。

   そこに、教育委員会・現場教職員の感覚・価値観を挟み込んだら、

   問題が改善されなくなってしまいます。

   外部からの問題提起は、改善する前提にしてください。

  それくらいしないと、今起こっているイジメ・不登校自死etcの問題は減りません

 

  本当は、このような問題提起に対して、即答で「改善する」と、

  はっきり言っていただきたいです。

  曖昧な表現・はぐらかし・社交辞令は、無しにして、即答していただきたいです。

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主旨

世の中には、

習慣として行われていることが、誰かを傷つけているということがあると思います。

学校にもその習慣が存在します。

 

それは、学校で小中高のときに用いられる、”背の順”です。

 

背の順は、主に「前方の視認性の配慮」の意味で行われていると思います。

しかし、先頭・前方の学生に精神的苦痛・劣等感・屈辱感・憎しみを植え付けます。

「前方の視認性」よりも、精神的苦痛・劣等感・屈辱感・憎しみの方が大きいです。

 

 だから、県内の全ての小学・中学・高校から背の順を廃止してください。

代わりの並べ方を H.「改善」で述べています。

 

これは、私が特殊だからではありません。

背の順で並べられれば、一部の人が必ず苦痛を感じます。

背の順は、一部の学生に苦痛を強いるものなのです。

背の順の問題提起をしている記事のURL4つ挙げます。

 

 (以下のURLは、私と同様の考えの人が書いたものです。

 4つ挙げます。

 これ以外にも、「背の順 差別」「背の順 廃止」「背の順 おかしい」

「背の順 体育」「背の順」などで、google検索してみてください。

 同様の記事や質問が多々あります。

 

 http://www.angelfire.com/wi/caretheworld/japanese/heightorder.html 

 https://senkokugoshochi.com/koharu/in-descending-order/ 

 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsshs/theme/pdf/2006/2006_kazoku_11.pdf 

https://toyokeizai.net/articles/-/24771?page=3           

https://anond.hatelabo.jp/20131019174659

http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/Ekkyo/data/chunks/manazashi.html

https://www.ikumen-kotanosuke.com/senojun/                                         

https://www.ikumen-kotanosuke.com/senojun/                                         )

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. 論点にご注意ください。

 

私の主張する「背の順の廃止」に対して、

「背の順は、意味や合理性があり、使用します。」という回答は、

そもそも論点がずれています。

 

こちらとしても、教員から見た、

何らかの意味で背の順を使っていることはわかっています。

しかし、私は、それを独善的な意味づけだと言っているのです。

学校の規則、習慣は、教員が勝手に決めているわけですが、

そのセンスが酷いと言っているのです。

 

教員から見た意味づけ・合理性があっても、背の順で並ばせられると苦痛を感じます。

意味・合理性は、苦痛を感じない人、教員から見たものでしかありません。

教員から見た意味・合理性は、学生の苦痛を消したりしません。

また、教員と同じ考えにはなれないです。

つまり、苦痛を感じる学生から見れば、意味・合理性はありません。

 

教員から見た意味・合理性が存在すると知った上で、

私は、苦痛を感じる学生がいるから廃止してくださいと主張しています。

そして、背の順よりいい並べ方を提案しています。

 

背の順でなくても、「前方の視認性の配慮」という目的は、満たすことができます。

人の身体的なことを基準にする必要はありません。

その他の目的も背の順という手段でなくても満たせます。

背の順を廃止しても問題はないです。

むしろ、背の順が問題を引き起こします。

代わりの並べ方を H.「改善」で述べています。

是非、ご覧ください。

 

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2. 教員視点を正義とする危険性

 背の順のような人権侵害が起きるのは、教員の視点・都合だけで物事を決めるからです。

 「教員が決めたことは、正しい」として、安易に行うのは、危険です

 そこには、教員の考えしか入っていません。

 教員の考えが絶対ではありません。

 

 図的に説明します。

 壁が存在するとしてください。

 二面は、異なります。

 教員が見ている面をおもて、苦痛を感じる学生が見ている面をうらとします。

 おもて面には、「意味・合理性がある」と書かれています。

 うら面には、「苦痛である」と書かれています。

 このとき、壁を見ていても、見えているものは違います。

 教員が、苦痛を感じる学生に、「こっちに来い。」と言います。

 しかし、学生は、教員の側には行けません。

 何故なら、この立ち位置は固定されているからです。

 何に固定されているのかというと、身長という身体的な個性により固定されています。

 逆に、学生が教員に「こっちに来てください。」と言っても、同様に行けません。

 

 この壁は、背の順です。

 このような壁が存在する理由は、身長という根本的なことを基準に人を並ばせるからです。

 身長という根本的なことを基準にするから、立場の違いが生じ、

 見える物事の違いが生じ、対立が起こるのです。

 

 身体的なことである「身長」という根本的なことを、

 基準にしているから立ち位置は固定され、移動することができないのです。

 この壁をなくす必要があります。

 つまり、背の順を廃止する必要があります。

 他の並べ方ならば、壁は生じないです。

 

 同じ捉え方をしろと言うのは、同じ立場から見ろと言うことになります。

 同じ立場から見ろと言うのは、根本的なことを同じにしろと言うことになります。

 つまり、

 同じ捉え方をしろというのは、根本的なことを同じにしろということになります。

 よく考えてください。

 根本的なことは、同じにはできません。

 同じ、身体・人種・文化・宗教・家庭・バックグラウンドetcになりますか。

 絶対に、無理です。

 つまり、「同じようにできない範囲」が存在します。

 

 背の順の場合、身長という根本的な違いにより、

 苦痛を感じる人と、そうでない人の、二つが存在します。

 そして、この両者は、共感が難しいです。

 身長は変えられませんから、感じ方は変えられないのです。

 「苦痛なんて感じないだろう、背の順は前方の視認性の配慮だろう」と言っても、無理です。

 背の順を苦痛と感じることは、変えることのできない身長という根本から来ています。

 

 人が、人権侵害と思うのは、自身の個性を侵害された時です。

 私の場合は、身長という身体的なことを侵害されました。

 人は、変えることのできることに関しては、自然と社会・集団に合わせています。

 しかし、根本的なことで侵害されている場合は、合わせられません。

 また、根本的なことを侵害された事による苦痛は、

   他者の視点の意味・合理性ではなくなりません。

   

 根本が違えば、立場が違い、捉え方が違うのは、当たり前です。

   物事には、いろんな視点があります。

   物事は多面的です。

 多方面から見る、多方面からの意見を聞くことは、重要です。

 教員の視点を正義として、学生に苦痛を強いるのはやめてください。

   

   本の学校教育は、あまりにも一方的な押し付けをしています。

   学生が自由に発言して、自分たちにとって快適な環境をつくれるようにすべきです。

   

 

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3. よくある返答に対する答え

しばしば、この記事に対して、

「整列方法は、各学校の裁量に任せているので、背の順を廃止はできない」という、

返事があります。

しかし、各学校の裁量に任せているから問題なのです。

この記事で説明しているように、

背の順の問題は、センシティブな内容なので教育現場では表に出ません。

表に出ないですが、昔から多くの学生が苦痛を感じていたと思います。

だから、各学校の裁量任せではいけないのです。

教育委員会によって、各学校に通達し、

背の順という並べ方をなくしていく必要があります。

背の順は、一部の学生に苦痛であることを拡散してください。

背の順は人権侵害だということを教育界に拡散してください。

 

私は、教育委員会が変えてくださらないのならば、

県知事・文科省等にも意見を言わせていただこうと思っています。

 

 

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4. 放置すれば、これから先も問題は起きる

  背の順のにより苦痛を感じる学生が存在するという事実は、

  これから先も、背の順を使い続ける限り起きます。

  ある集団内で背の順に並んだら、必ず先頭と最後尾が存在します。

  そして、この集団で先頭・前方になる学生、

  すなわち、この集団内で背の低いとされる学生は、必ず苦痛を感じます。

  私だから、背の順が苦痛なのではありません。

  背の順というシステムが悪いのです。

 

      なんだか、バカバカしいことをしていると思いませんか。

      始めから一部の人が苦しむとわかった上で、強行するなんて卑劣だと思いませんか

 

  「嫌ならやめろ・嫌なら出て行け」という言葉が的外れだというのは、わかりますよね。

  苦痛を感じている学生が出て行くと、解決するものではないからです。

  他の子が次にその立場になるだけだからです。

  つまり、構造・システムを変えないといけないとわかりませんか。

 

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 5. どちらが正しいかを主張したいのではありません。

先に述べておきます。

背の順に対する、

教員から見た意味・合理性と私の主張する背の順の問題をぶつけあいたいのではありません。

教員から見た意味・合理性を批判したいのではないです。

私は、一貫して、背の順が一部の学生にとって、

苦痛になるからやめてくださいと言っているのです。

「背の順は、教員から見たような意味・合理性があるか、

それとも私の主張するような問題性があるか」というような、

議論のせめぎ合いをしたいのではありません。

 

私は、一部の学生にとって苦痛になるので、無くしていただきたいとお願いしているのです。

背の順は、一部の学生に苦痛を強いてまで行うほどの、価値はないです。

背の順に対する、教員から見た意味・合理性は、背の順以外の手段でも得られることです。

目的に対して、いろんな手段ああるはずです。

他の手段を、 H.「改善」で説明します。

 

また、

背の順に対する教員から見た意味合理性についての私の回答は、

I.「背の順に関する補足説明12個」- 1. 背の順に対して、教員から見た意味・合理性として挙げられるもの」で説明しています。

 

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6.まず先に人権を考えてください。

 教員の方は、まず先に学生の人権を考えてください。

そうでないと、学校では、いじめ・ケンカ・非行・不登校etc問題が起き続けます。

何をするにも、まず先に人権を考えて、その次に意味・合理性を考えてください。

ただし、人権を考えるといっても、教員だけのの感覚で決めると侵害が起きます。

ですから、学生の声をフィードバックしてください。

 

具体的な、方法は以下で説明しています。参考にしてください

 I.「背の順に関する補足説明12個」 -  6. 類似問題の解決方法 

 

 

 

 

 

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7.  私の受けた被害

  私は、背の順が苦痛で仕方ありませんでした。

  苦痛により、鬱・不眠症不登校になりました。

  想像してください。

  12年間、背の順が行われ、その度に精神的に攻撃されるわけです。

  相当な苦痛です。

  

  背の順が苦痛だというと、大したことないと思われるかもしれませんが。

  背の順は、身体という自身の根本的な個性を晒され、

  侮辱されているのと同じなので相当な苦痛です。

  背の順の都度、お前はチビだと侮辱されていじめられているのと同じです。

  というか、背の順は一部の学生に対するイジメです。

  これは、D.「何故、苦痛なのか。」で詳しく説明しています。

 

  知らなかったからとか、そんな意図ではないからというのかもしれませんが、

  教員が意図してなくても、学生を苦しめているかもしれないことを知ってください。

  こまめに、規則・習慣を変えて、人権尊重の範囲の拡大をすべきだと知ってください。

  私のように苦痛を感じた学生が今もいます。

  早急に、背の順は廃止してください。

  

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記事の中心

 

A.「主張」

背の順の廃止をしてください。

背の順で、苦痛を感じる人がいます。

苦痛を感じる学生は、背の順のとき先頭・前方にいる学生です。

背の順は、背の順は、学生の心を傷つけます。

だから、背の順を廃止してください。

 

背の順には、主に「前方の視認性の配慮」という目的があります。

背の順は、目的のための手段として、用いられています。

しかし、「前方の視認性の配慮」のために、

背の順という手段を使う必要があるのでしょうか。

他の手段は、無いのでしょうか。

他の手段を、 H.「改善」で説明します。

 

教育関係者の方々は、どんな理由があっても、

「身体的な基準で人を並べることは、すべきじゃない」とわかってください。

何かと理由をつけて背の順を正当化しないでください。

その理由は、教員側から見た、ものでしかありません。

 

背の順に違和感を感じない人権意識は、古いです。

人に対して失礼なことをしているとわかりませんか。

身体的なことを指摘する・並べるのは、すごく失礼なことです。

人に対して、卑劣な行いをしているとわかりませんか。

 

そもそも、こんなことを問題提起しないといけない時点で、相当教育界は遅れています。

「今まで、背の順を使ってきたから、背の順は正しい。」という考え方は、おかしいです。

今までが間違っていたんです。

背の順を、何かと理由をつけて強行してきたことが問題だと、私は言っているのです。

今まで、背の順でどれだけの学生に精神的苦痛を与えてきたかを考えてください。

 

また、苦痛を感じている学生は、いくらか教員を信用しなくなります。

それは教員にとっても不利益だと思います。

学生の苦痛を取り除くことは、教員から見ても意味のあることではないでしょうか。

 

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B. 「背の順の4つの問題点」

背の順には、主に、以下の4つの問題があります。

 

1.  背の順のとき、先頭の子は、背が低い人という立場になります。

  「この人は、クラスで一番背の低い人ですよ・チビですよ」と晒されています。

  侮辱されているのと同じです。教員から、イジメられているのと同じです。

   背の順は、先頭・前方の学生の身長が低いということを、際立たせています。

  人の身体的なことを、目立たせている卑劣な行いです。

  背の順は、言わなくていいことをデリカシーもなく言う人と同じです。

  これにより、苦痛を感じます。

  これは、以下、D.「何故、苦痛なのか。」 a で説明します。

 

 2.  背の順をきっかけに、「チビ」などと、侮辱・イジメ・からかいの対象になる。

  (特に、小中学生のとき)

  これにより、苦痛を感じます。

  また、背の順のたびに、侮辱を思い出し、苦痛になります。

  これは、以下、D.「何故、苦痛なのか。」 b で説明します。

 

3.  何らかの理由で、身長をコンプレックスにしている場合もあります。

  身長をコンプレックスにするというのは、そこまで珍しいことではないと思います。

  そう考えれば、背の順は、コンプレックスを刺激し、苦痛になると予想できると思います。

  これは、以下、D.「何故、苦痛なのか。」 c で説明します。

 

 4.  そもそも、”身長”という身体の特徴で場所を強制されることが、人権侵害です

  人の身体的なことを指摘したり、それを基準に並べるのは、人権侵害です。

  やってはいけない、失礼で卑劣なことです。

 

 

 

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C. 「場所による感じ方の違い。」

30人程の学生が背の順で整列します。

(前方に背の低い学生、後方に背の高い学生という順に並べたとします。)

このとき、身長によって、位置を強制されます。

そして、背の順が出来上がります。

 

背の順は、以下のように分類できます。

①:先頭・前方 (背の順を苦痛に感じる学生のいる位置)

②:中央・中盤

③:最後尾・後方                    

 

【このとき、

 先頭・前方の学生と中央・中盤、最後尾・後方の学生、立場は物理的に違います。

 そして、立場によって、背の順に対する感じ方は違います。                】

 

 教員、中央・中盤、最後尾・後方の学生は、

 「背の順は、前方の視認性の配慮だ」と思っています

配慮だと思えるのは、背の順で苦痛を感じたことがないからです。

現状では、この視点が、総意だとされています。

 

しかし、

・先頭・前方の学生は、「背の順は、苦痛だ」と思っています。

 苦痛なので、「前方の視認性の配慮」とは、思えません。

 

このように、場所によって、背の順に対する感じ方は全く違います。

 

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D. 「何故、苦痛なのか。」

では何故、先頭・前方の学生は、背の順が苦痛なのでしょうか。

背の順を苦痛と感じる理由を説明します。

 

 以下、先頭・前方(背の順を苦痛に感じる学生の多い位置) についてのことです。

先頭・前方の学生は、以下3つにより、

身長をコンプレックスにします。 そして、苦痛を感じます。

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a.   背の順のとき、先頭・前方の学生は、背が低い人という立場になります。

   先頭・前方の学生は、「背の低い人」として晒されています。

  「この人は、クラスで一番背の低い人ですよ・チビですよ」と言われているようなものです。

      背の順は、先頭・前方の学生の身長が低いということを、際立たせています。

  人の身体的なことを、目立たせている卑劣な行いです。

  背の順は、言わなくていいことをデリカシー無く言う人と同じです。

  (例えば、英語の授業で、「このクラスで一番」と言う文法を使うとします。

  このとき、「このクラスで一番、背の低いのは〇〇だ。」と言う例文を使うのは、

  あまりにもデリカシーに欠けることだとわかりますよね。背の順は、これに似ています。 )

  このような状況に12年間晒されているわけです。 

  これにより、苦痛を感じます            

  また、晒されることにより、身長をコンプレックスにしてしまいます。

    さらに、背の順のたびに、このコンプレックスを刺激され、苦痛を感じます。    】

 

 

 b. 背の順のとき、先頭・前方の学生は、背が低い人という立場になります。

  「この人は、クラスで一番背の低い人ですよ・チビですよ」と言われているようなものです。

     そして、背の順をきっかけに「ちび」etcの侮辱・イジメの対象になることがあります。

     (侮辱etcは、小中学生のときに多いです。私は、小・中学生のときに侮辱を受けました。

   もしかしたら人によっては高校でもあるかもしれません。           )

    これにより、先頭・前方の学生は、苦痛を感じます。

  また、侮辱etcにより、身長をコンプレックスにしてしまいます。  

      さらに、背の順のたびに、過去の侮辱を思い出します。  

  高校生であっても、小学生・中学生の時に侮辱されたことを思い出してしまいます。 

      背の順のたびに、このコンプレックスを刺激され、苦痛を感じます。    

  このような状況に12年間晒されているわけです。        

  

  小柄な学生はいじめ・侮辱・からかいetcを受けやすい。

  これは、教員の方々も気づいているかもしれません。

  幼少期、ある集団内において、身体的に弱いとされる人が、

  イジメ・侮辱・からかいetcを受けることは、多々あります。

  幼少期は、力こそがものを言う環境ですから、

  その集団内でのストレスが、一番弱い立場の人、

  つまり、小柄な学生に向けられることは、考えたらわかると思います。

  何かしたわけでもないのに、突然攻撃の対象にされます。

  攻撃しても、復讐されないと見て、攻撃対象になりやすいです。

  これは、生物本能でしょう。

  これは、事実です。

  また、教員の多くも気づいていることだと思います。

  気づいていないなら気づいてください。   

  恐らく、不登校・いじめ被害にあう学生の多くは、小柄な子が多いと思います。

  統計がないですが、傾向としてあると思います。

  この傾向には、間違いなく、背の順も関わっています。

  教員は、小柄な学生がイジメにあっていないかよく注意してください。        

 

 

c. 上記のab  以外の状況で、身長をコンプレックスにしている場合もあります。

  身長をコンプレックスにするというのは、そこまで珍しいことではないと思います。

  背の順は、コンプレックスを刺激します。

  そして、苦痛になると予想できると思います。                   】

 

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【注意!】

背の順の問題提起をすると、

対策として「学生の人権教育を行います。」という返答をいただきます。

人権教育を行なっていただけることは、嬉しいことです。

ありがとうございます。

しかし、問題の本質は背の順自体にあります。

だから、背の順の廃止を訴えているのです。

何故、背の順自体が問題なのか、3つの理由を説明します。

 

1. 背の順だけで苦痛。

 侮辱がない場合でも、身体的なことを晒されるわけですから、背の順だけで苦痛です。

 身体的なことを公表され、指摘されているのと同じです。

 世の中には、言わなくてもいいのに、他人の身体的なことを指摘する人がいますよね。

   「太っているね」「背が低いね」「肌黒いね」などなど。

 身体的なことについて、デリカシーのないことをいう人がいますよね。

 背の順はまさに、その人と同じです。

 侮辱の有無にかかわらず、背の順自体で苦痛を感じるのです。

 侮辱に関係なく、背の順が問題なのです。

 つまり、背の順自体が問題なのです。

 

 

2. 背の順が、侮辱を思い出させるトリガーになる

 背の順の問題提起をすると、

「学生に人権教育を施します。」という回答をいただくことが多いです。

 しかし、仮に、人権教育を行なったとしても、

 身体的なことについての侮辱・イジメ・からかいは 0 にはならないと思います。

 恐らく、どれだけ学生に人権教育をしても、侮辱をする子は存在します。

 教員の前で侮辱はしなくても、教員のいないところで侮辱はあります。

 人権教育を施せば解決するという発想は、甘すぎます。

 

 侮辱は、侮辱をする学生の心に問題があります。

 もしかしたら、その学生も何らかの理由で苦痛を感じていて、

 その苦痛を他者に向けたのかもしれません。

 そしていじめ・からかい・侮辱の理由として、

 他者の身長のことをとりあげて攻撃するのだと思います。

 

 背の低い子は、幼少期に、身長を理由に侮辱を受けることが多々あります。

 これは、傾向として事実あります。

 もし、それがわからないならば、子供達の言動を観察できていないと思います。

 すなわち、集団において背の低い子は、何かと侮辱・いじめ・からかいの標的になります。

 背の低い子の多くは、人生において幼少期に、少なくとも1回は侮辱されると考えてください。

 そう考えてもいいくらい侮辱はあります。

 すると、侮辱された回数が1回であったとしても、

 背の順で並ばせられたら、その侮辱を連想します。

 そして苦痛を感じます。

 背の順が、侮辱を思い起こさせるトリガーになっています。

 背の順は、侮辱を受けた学生に、二次被害を与えています。

 侮辱は、完全に無くすことができなくても、背の順は無くすことができます。

 侮辱よりも、その侮辱を思い出させるトリガーになっている、

 背の順による苦痛の方がつらいです。

 つまり、背の順自体が問題なのです。

 

 

3.  背の順が、コンプレックスを刺激するトリガーになる

 上記、c の場合についてです。

 何らかの理由で身長をコンプレックスにするというのは、多いことです。

 珍しいことではありません。

 そのような人にとっては、されたくないことを強要されるわけですから、

 苦痛・侮辱・屈辱ですよね。

 身体的なことで並べると、

 誰かが嫌な思いするかもしれないということぐらい想像できると思います。

 背の順がコンプレックスを刺激するトリガーになっているわけです。 

 背の順は、侮辱を受けた学生に、二次被害を与えています。

 つまり、背の順自体が問題です。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

E. 概念と並べ方による侵害のメカニズム  (超重要です。)

以下、さらに、原因を詳しく分析します。

 

人は、立場によって、全く異なる経験、感じ方をします。

整列一つにしても、場所によって全く異なる感じ方をします。

背の順によって、差別・人権侵害がどのようにして起きるか知ってください。

 

キーワードは、「二元論・概念・波及・優劣・序列意識・侮辱的意味づけ」です。

 

 

1.  二元論で表せられる概念に注意

世の中には、二元論で表される「概念」が多くあります。

例えば、

概念として「学力・能力・運動能力・点数・成績・社交性・年収・学歴・地位」etcを挙げます。

これらは、「高い・低い」で二極で表せられます。

 

人間は二元論で表せられる概念に対して、「優劣」・「良し悪し」をつけたがります。

または、無意識につけています。

 

そして、これらの概念は、「高い」方が「良い」とされます。

 

多くの「概念」を考えてみてください。

一般に、「高い」方が「良い」・「優れている」とされる概念が多いと思います。

逆に、「低い」方が「良い」とされる「概念」は、見当たらないような気がします。

 

「低い」という言葉自体が、人の何かを表すとき、いい意味で使われないように思います。

能力でも点数でも、「低い」という言葉は、人に対して侮辱として使われると思います。

学力が低い・能力が低い・運動能力が低い・点数が低い・成績が低い・などがあります。

 

つまり、社会には、何かと「高い」方が「良い」・「優れている」という風潮があります。

 

このような「高い・低い」の二元論で表せる「概念」を基準に人を並ばせたら、

「高い」方の人が、「良い」とされます。

「低い」側の人が苦痛・屈辱・憎しみ・劣等感etc を感じると想像できると思います。

 

  例えば、「能力」で並べられたら、「低い」側の人が、「劣っている」・「悪い」となり、

「低い」の側の人が苦痛を感じます。

「成績」「点数」なども、同様です。

 

つまり、「高い・低い」で表せられる「概念」を基準に並べたら、

「優劣・良し悪し」などの序列関係ができます。

 

 

――――――――――――――――――――――――

2.  ここから、「身長」という概念の場合を考えます。

上記を踏まえて「身長」という「高い・低い」の二元論で表せられる概念について考えてください

「身長」は、「高い・低い」の二極で表せられます。

並べると、必ず、先頭と最後尾の二極が出来上がります。

 

上記で述べたように、

人間は二元論で表せられる概念に対して、「優劣」・「良し悪し」をつけたがります。

または、無意識につけています。

 

学校で重要とされる、

「学力・点数・成績・運動能力・社交性」などに関しても、「高い低い」で表せられ、

「高い」方がいいとされています。

つまり、学校でも、「高い」方が「優れている」・「良い」とされる概念が多いです。

 

「学力・点数・成績・運動能力・社交性」etcで、並べられたら、

「低い」とされる側が、「劣っている」・「悪い」という烙印を押されます。

 

以下、5つの原因により、

背の「高い」方が「優れている」・「良い」という風潮が出来上がります

 

 

.「学力・点数・成績・運動能力・社交性」などの、

 「高い」方が「優れている」・「良い」という風潮が「身長」にも波及します。

  

  人間は、そこまで、概念を区別して生きてはいません。

  

      「高い・低い」で表せられるという共通点から、

  「高い」「低い」の「優劣」・「良し悪し」の印象だけが、背の順にも波及します。

 

 つまり、背が「高い」方が「良い」・「優れている」という風潮が学生の中にできあがります。

 そして、背が「低い」方の人が、苦痛を感じます。

 

 ( これは、恐らく、背の高い学生たちは、何も意識していないかと思います。

  しかし、背の低い学生たちは、非常に気にしています。                        )

 

そして、「身長」は、学生間において序列のようなものになります。

 

多くの人は、「学力・点数・成績・運動能力・社交性」で並べられたり、

貼り出されるのも嫌だと思うでしょう。

しかし、これらは、努力次第で変化することなのでまだマシです。

「身長」は、努力で変えられない、生まれながらの根本的な個性です。

そのような、変えられない根本的なことで、

人を並ばせていることの異常さに気づいてください。

 

 

2.  また、幼少期の世界は、力こそがものをいうところがあります。

  背の「高い」方が、力が「強い」という事実があります。

  背の順は身体的弱者を際立たせています。攻撃しろと言っているような行いです。

  学校では、体の大きな学生に、突然、攻撃をされ、

  屈辱感・劣等感を刷り込まれることもあります。

  つまり、身長が「高い」方が「良い」という風潮が出来上がります。

 

    

3.   また、幼少期の世界は、

  運動ができる方が「良い」・「優れている」とされるところがあります。

  背の「高い」方が運動に「有利」です。 

  つまり、身長が「高い」方が「良い」という風潮が出来上がります。

 

 

4. 「高い」方が「優れている」・「良い」という風潮から、

  背の低い人を侮辱する人も出てきます。 

  侮辱により、屈辱感・劣等感を刷り込まれます。

  つまり、身長が「高い」方が「良い」という風潮が出来上がります。

 

 

5. 一般に、背が高い方が、カッコいい・スタイルがいい・容姿がいいとされる世の中です。

 メディアにおいてもそのような風潮があります。

 そこにおいて、人を背の順で並ばせるのは、

 容姿のいい人・普通の人・容姿の悪い人という分類をしているようなものです。

 明確化し際立たせている状況です。

 この時、背の低い人がどのような思いをするかは、想像できることです。

 つまり、身長が「高い」方が「良い」という風潮が出来上がります。

 

 

上記、5つにより

「身長」を基準にすることで、「優劣・良し悪し」の序列関係ができます。

 

何故、このようなことが起きるかというと、

”身長”という身体の特徴で場所を強制するからです。

人の身体的なことを指摘したり、それを基準に並べるのは、それ自体が人権侵害です。

やってはいけない、失礼で卑劣なことです。

 

 

――――――――――――――――――――――-

3.  さらに、場所に侮辱の意味づけが行われます。

身長という概念により、

先頭・前方 、中央・中盤 、最後尾・後方 はそれぞれ意味を持ちます。

そして、その意味により、苦痛を感じる学生がいることは想像できると思います。

 

背の順の時、以下のように、場所に意味づけがなされます。

・先頭・前方は、「小さい、チビ

・中央・中盤は、「平均、普通 」

・最後尾・後方は、「大きい・デカい」  

 

背の順で並べると、上記のように場所に意味づけがなされます。

先頭の学生は、背の順により、

「この人は、クラスで一番背の低い人ですよ・チビですよ」と言われているようなものです。

先頭・前方の学生は、「背の低い人」として晒されています。

また、「チビ」という侮辱をされます。

 

つまり、

身長を基準にすることで、場所に上記のような侮辱の意味付けがなされます。

 

何故、このようなことが起きるかというと、

”身長”という身体の特徴で場所を強制するからです。

人の身体的なことを指摘したり、それを基準に並べるのは、それ自体が人権侵害です。

やってはいけない、失礼で卑劣なことです。

 

―――――――――――――――――――――-

4.  その他の「概念」も同様に注意すべき

何か「概念」を基準に並ばせる時には、

場所に優劣・良し悪し、侮辱の意味づけ がなされないように、

気をつけて「概念」を選ぶべきです。

 

他の「概念」の場合も危険です。

以下の概念は、「高い・低い」の二元論とは異なります。

 

しかし、人は、二元論で表せられる概念に対して、「優劣」・「良し悪し」をつけたがります。

または、無意識につけています。

 

例えば、身体的な概念、「肌の色・髪の色・容姿・体重etc」があります。

これに関しては明らかに、場所に優劣・良し悪し、序列意識・侮辱の意味づけ がなされ、

人権侵害が起きるかもしれないとわかります。

 

しかし、一応説明しておきます。

 

・肌の色の場合

 日本では、そうではないですが、欧米では、今も、根強く白人優勢の風潮があります。

 未だに、暴力的な差別があります。

 つまり、「肌の白い人」は、「良い」という風潮があります。

 あからさまに言うのは人権侵害なので言いませんが、確実にあります。

 この時、先頭を肌の最も白い人、後方を肌の最も黒い人として順に並べたとします。

 このとき、後方の人が、苦痛・屈辱・劣等感を感じさせられます。

 また、場所に侮辱的な意味づけもなされます。

 実際はしないですが、わかりやすい例として挙げました。

 

 

・体重の場合

 恐らく、「軽すぎても、重すぎても良くない」という風潮があります。

 女性は特に気にしてたりします。

 このとき、体重順に人を並べたら、

 中央から離れれば離れるほど苦痛・屈辱・劣等感を感じさせられます。

 また、場所に侮辱的な意味づけが起きることは、想像できます。

 実際はしないですが、わかりやすい例として挙げました。

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.   まとめ

能力的な概念、「学力・点数・能力・運動能力・成績・社交性・年収・学歴・地位etc

身体的な概念、「肌の色・髪の色・容姿・体重etc」       

いづれの概念についても、「高い低い」・「重い軽い」などの、二元論で表せられてしまいます。

 

人は、これら二元論で表せられる概念に対して、

「優劣」・「良し悪し」をつけたがります。

または、無意識につけています。

 

そして、これらの概念で並べられれば、一方、または両方が苦痛を感じます。

 

「身長」という概念を基準に並ばせる、背の順も同様です。

背の順は、自己の身体的なこと「身長」を意識させます。

そして背の「高い」方が「優れている」・「良い」という風潮が出来上がります。

そして、学生間に優劣・良し悪し、侮辱的意味づけ・序列関係が生じます。

これらにより、背の低い学生は、苦痛・屈辱感・劣等感を刷り込まれます。

 

成績・点数で並べられたら、点数の「低い」学生が苦痛を感じるのは想像できるでしょう。

他の概念の「低い」のは、劣っている・悪いという風潮が波及して、

背の順でも「低い」のは、劣っている・悪いという風潮が出来上がります。

 

つまり、背の順は、人の身体的な順位を張り出していることと同じです。

人の身体的なことを、順位づけしていることと同じです。

背の順は身体的弱者を際立たせています。攻撃しろと言っているような行いです。

凄く、屈辱的ですし、侮辱です。あまりにも、人権侵害です。

 

 

1. そもそも、身体的なことを基準に、指摘したり、ふれたり、

 場所を勝手に決めたり、並ばせることは、絶対にやめてください。

 学校では、何かにつけて、身体的なことで勝手に決められることが多いように思います。

 人を身体的な特徴で並べてはいけないという人権意識を持ってください。

 人種の多様性があまりない故に、

 身体的なことで人を並べることが、身体的な事で何かを勝手に決めることが、

 どれほど酷い事かわからないのかもしれません。

 しかし、よく考えてください、自身の身体的な事で場所を強要されたいですか。

 何かを、身体的な事で勝手に決めたりしないでください。

 背の順だけでなく、

 例えば、合唱祭などで、壇上で歌うとき、身長で並べないでください。

 全ての学生の顔さえ見えていればいいのですから、

 「全員の顔が映るように並んで」といえば十分です。

 大きさが、揃っているかなどを気にするのは、教員の視点です。

 学生にとっては、どうでもいいです。

 他には、組体操において、体の大きさで場所が決まるそうですが、

 体が大きいがゆえに、多くの学生に上に乗られるのは、屈辱的だと思います。

 このように、身体的なことで、場所を決めることはやめるべきです。

 また、組体操は、事故の危険性が高いため、やめるべきです。

 

2. また、何かの「概念」を基準に並べるというのは、その「概念」を意識させます。

 さらに、人は、その「概念」に優劣・良し悪しをつけたがります。

 並べるならば、優劣・良し悪し・侮辱的意味づけ・序列意識が、

 生じないような「概念」を使ってください。

 優劣・良し悪し・侮辱的意味づけがつく「概念」を基準に並んだとき、

 末端の学生は、他の学生以上により強くその「概念」を意識します。

 さらに、風潮として「劣る・悪い」側だったら、苦痛・屈辱感・劣等感をを感じます。

 「それは、あなたが身長が低いのが劣っている、と思うからでしょう」という、

 反論がありそうですが、それは、違います。

 背の順で並ばせられたら、学生間に、優劣・良し悪し・侮辱的意味づけ・序列意識が生じます。

 絶対にです。

 それでも、「ない」という方は、

 背の順のとき、高い方か、中盤の方、

 または低くても、苦痛を感じないで済んだ方というだけです。

 

 それが「身長」ならば身長を気にします。

 近年、成績・点数などの順位付け・張り出しをやめてほしいと言う声が、

 学校に寄せれられているかもしれません。

 それは、上記で説明したように、

 一方または、両端の学生に苦痛・屈辱・憎しみなどを植え付けるからです。

 人を何かを基準にに並べたり、成績などを張り出したりしているならば、

 それは、個性尊重・多様性尊重からは、遠いことをしています。気づいてください。  

 私の中に、成績・点数などは、努力次第で変えられるから、

 並べられてもいいかなと思う部分がありますが、

 恐らく、それで嫌な思いをしている学生もいます。

 そう考えれば、並べる時の「概念」には注意が必要です。

 

3. 「身長」という基準で並ばせておきながら、

 「身長を意識するな」「比較ではない」というのは、欺瞞だと思います。

  実際、多くの学生にとっては、「身長を意識します」。

  また、それが「比較」にしか思えません。

  比較によって場所が決まるのですから、比較です。

  背の順が、序列意識を作ってしまっていると、気づいてください。

  背の順で並ばせられているのに、「身長」を意識しないというのは、

  修行僧でも難しいのではないでしょうか。

  ましてや、そんな精神を、学生に求めるべきでしょうか。

 

4.    自由に並んだときでも、場所によって感じ方は違うと思います。

  ましてや、身体的な基準で並ばせられたら、どうでしょうか。

  先頭と最後尾は、身体的な特徴の極地です。

  自身の身体的なことを、目立たせられているようには思います。

  両端付近になればなるほど、自身の身体的なことを強く意識させられます。

  ましてや、「身長」を基準に並んだときは、どうでしょうか。

  優劣、良し悪し、序列意識が生じます。

  その両端に侮辱的な意味づけが起きます。

   

5. 教員が「身長は人それぞれ、高い方がいいということはない」と言ったとしても、無意味です。

 教員の発言で、優劣・良し悪し、侮辱的意味づけがなくなりはしません。

 教員による意味づけ・合理性よりも、優劣・良し悪し、侮辱的意味づけの方が事実なのです。

 教員の方は、何かと口頭で注意すればいいと思っているようです。

 しかし、それは意味がありません。 

 背の順という「身長」を意識させる並べ方をやめるべきです。

 

6. このような問題は、マイノリティの問題として扱われるかもしれません。

 マイノリティの感性の特異さ・奇抜さに原因があるとされそうです。

 そうした方が、教員にとって、都合がいいからです。

 しかし、上記で説明したメカニズムから、

 問題は背の順という並べ方にあるとわかります。

 マイノリティ側の感じ取り方に問題はありません。

 背の順は、一部の人が苦痛を感じる並ばせ方なのです。

 

―――――――――――――――-

6.注意していただきたいこと。

教員から見た意味・合理性よりも、並ぶ基準となっている「概念」を意識します。

だから、並べるとき、何の「概念」を基準にするかよく考えてください。

 

「概念」を選ぶとき、

 場所に優劣・良し悪し、侮辱的な意味づけが起きないか、注意してください。

 以下の概念ならば、苦痛・屈辱感・侮辱的な意味づけ、が起きないと思います。

 

 ・「名簿」という概念の場合、

  「あ」から始まって「わ」で終わる人がいるというだけです。

   場所に、優劣・良し悪し、何らかの侮辱的意味づけ序列意識はつかないと思います。

 

 ・「誕生日」という概念の場合、

  「1月」から始まって「12月」で終わるというだけです。

   場所に、優劣・良し悪し、何らかの侮辱的意味づけ序列意識はつかないと思います。

 

 ・「くじ引き」という概念の場合

   引いたくじの番号で、場所が決まったというだけです。

   場所に、優劣・良し悪し、何らかの侮辱的意味づけ序列意識はつかないと思います。

 

以上が、概念と並べ方による侵害のメカニズムです。

 

 

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F. 「何故、理解されないのか。」

 背の順は、以下のように分類できます。

(前方に背の低い学生、後方に背の高い学生という順に並べたとします。)

①:先頭・前方  (背の順を苦痛に感じる学生のいる位置)

②:中央・中盤

③:最後尾・後方                      

 

では、何故、先頭・前方の学生の苦痛が理解されないのか、説明します。

教員・中央・中盤、最後尾・後方の学生にとって、「背の順は、前方の視認性の配慮」です。

だから、

背の順により、先頭・前方の学生が身長をコンプレックスすること

それにより苦痛を感じることが理解できないでしょう。

 

しかし、

 C.「場所による感じ方の違い。」において、

【このとき、

 先頭・前方の学生と中央・中盤、最後尾、後方の学生、立場は物理的に違います。

 そして、立場によって、背の順に対する感じ方は違います。           】と説明しました。

                                     

場所による違いを、説明します。

1234の順に追ってください。

 

以下は、教員、中央・中盤、最後尾・後方の学生の考え方です。

1. みんなが認める「前方の視認性の配慮」という目的がある。

2. そのための手段として、背の順がある。

3. それなのに、先頭・前方の学生は苦痛だという、気にしすぎじゃない?

4. 背の順は配慮だ。

 

以下は、先頭・前方の学生の考え方です。

1. 背の順は、大多数により、配慮とされている。

2. しかし、苦痛を感じる。

3. 配慮とは思えない。

4. 場所によって背の順に対する感じ方が違う。

 

以上のように、立場によって、感じ方が違います。

現実に、私のように、背の順を問題とし、苦痛だという人がいます。

「配慮と思え」、と言われても、立場によって感じ方が違うので無理です。

ゆえに、感じ方を改めろと言う言葉は、立場を変えろと言っているのと同義です。

さらに、立場を変えろと言う言葉は、身体を変えろと言っているのと同義です。

身体は、変えることのできない個性です。

つまり、感じ方は、変わりません、変えられません。

 

しかし長い間、教員、中央・中盤、最後尾・後方の学生の感じ方が総意だとされてきたのです。

背の順を考案した人は、

先頭・前方の学生の人がどのような思いをするか想像がつかなかったのだと思います。

また、先頭・前方の学生からの意見を聞かなかったのでしょう。

このようにして、前例踏襲がくり返されてきました。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-

G. 「”例え”による説明。」

背の順は、以下のように分類できます。

(前方に背の低い学生、後方に背の高い学生という順に並べたとします。)

①:先頭・前方 (背の順を苦痛に感じる学生のいる位置)

②:中央・中盤

③:最後尾・後方                    

 ―――-

ここで、例えを使って、教員、中央・中盤や最後尾・後方の学生に

背の順のときの、先頭・前方の学生の感じ方を知っていただきたいと思います。

以下の、”例え”を、想像してみてください。

 

“例え”

【仮に、何らかの身体の特徴(髪の色・肌の色・体重・容姿etc)を基準に整列するとします

 多数の人は、これを配慮だと意味付けしているとします

 あなたの立ち位置が、末端になったとします。                   】

 

このとき、

この身体の特徴を晒されているようには思いませんか。

特徴を晒されているように思い、コンプレックスにはなりませんか。

また、この整列をきっかけに、侮辱の対象になったりはしない、と言えますか。

そして、その整列のたびに苦痛に感じませんか。

 

「教員が言う、配慮の意味付けがある。

 だから、苦痛を感じない       」と言えますか。

―――――

上記の”例え”を具体的に挙げます。

以下の、例により、

背の順が、人権侵害であるということがわかりやすいと思います。

 

 (・体重を基準に並んだ場合。

  前に軽い人、後ろに重い人の順に並んだとします。

  このとき、意図していなくても、前の人は「軽い・痩せている・ガリガリ」、

  後ろの人は「重い・太っている・デブ」などの意味づけがなされてしまいます。

      先頭の人は、「この人は、クラスで一番痩せてますよ」と晒されています。

  最後尾の人は、「この人は、クラスで一番太っていますよ」と晒されています。

  この場合、明らかに人権侵害ですよね。

  体形を晒されているように感じる人が末端にいることは想像できますよね。

  体重順をきっかけに、侮辱・イジメの被害にあうかもしれないと想像できますよね。

  何らかの理由で、痩せていたり、太っていることを、

  コンプレックスにしている人がいるかもしれないことは、想像できますよね。

  その人にとったら、体重順は、苦痛・侮辱・屈辱ですよね。

       

  ・肌の色を基準に並んだ場合。

  前に肌の黒い人、後ろに肌の白い人の順に並んだとします。

  このとき、意図していなくても、前の人は「色白」、

  後ろの人は「色黒」などの意味づけがなされてしまいます。

  先頭の人は、「この人は、クラスで一番白いですよ」と晒されています。

  最後尾の人は、「この人は、クラスで一番黒いですよ」と晒されています。      

  この場合、明らかに人権侵害ですよね。

  肌の色を晒されているように感じる人が末端にいることは想像できますよね。

  肌の色順をきっかけに、侮辱・イジメの被害にあうかもしれないと想像できますよね。

  何らかの理由で、肌が白かったり、黒かったりすることを、

  コンプレックスにしている人がいるかもしれないことは、想像できますよね。

  その人にとったら、肌の色順は、苦痛・侮辱・屈辱ですよね。

 

 

  髪の色・肌の色・容姿etcも同様です。

  身体の特徴を基準に並ばせられたら、末端の人が苦痛を感じるというのは、

  想像できることだと思います。

  これが想像できないのは、想像力の欠如です。

  意味・合理性があると思うのは、苦痛を感じる立場にいない人たちだけです。

  苦痛を感じている人からすれば、人権侵害です。

 

 しかし、身長を基準に並んだ場合は、問題ないとされています。

 おかしいと思います。

 背の順の場合も同様です。

 

 ・身長を基準に並んだ場合

  前に背の低い人、後ろに背の高い人の順に並んだとします。

  このとき、意図していなくても、前の人は「小さい・チビ」、

  後ろの人は、「大きい・でかい」などの意味づけがなされてしまいます。

  先頭の人は、「この人は、クラスで一番背が低いですよ・チビですよ」と晒されています。 

  最後尾の人は、背の順で並ばせられて自身の身長を晒されているように思うのか、

  私には、わかりません。

  しかし、苦痛を感じている可能性はあります。

  ですから、一応、最後尾の人は、

 「この人は、クラスで一番背が高いですよ・ノッポですよ」と

  晒されているかもしれないと、書いておきます。

  身長を基準に並んだ場合も明らかに、人権侵害でしょう。

  身長を晒されているように感じる人が末端にいることは想像できますよね。

  背の順をきっかけに、侮辱・イジメの被害にあうかもしれないと想像できますよね。

  何らかの理由で、低いことをコンプレックスにしている人が、

  いるかもしれないということは、想像できますよね。

  その人にとったら、苦痛・侮辱・屈辱ですよね。

 

 教員による意味づけ・合理性が、人権侵害という事実を打ち消すのでしょうか。

 そんな都合のいいことはありません。

 苦痛を感じている人の視点では、ただただ苦痛なのです。

 意味なんてのは、苦痛を感じていない人が勝手につけたものです。

 教員から見た意味・合理性があっても、人を身体的に並べることはしてはいけません。

 教員が「自分たちの決めたことは、正しい」と思い込んでいるだけです。         )

 

――――――

例え”に対し、

教員、中央・中盤、最後尾・後方の学生は、以下のように反論するかもしれません。

“反論”【上記の”例え”は、仮想である。

     現実的には,

     身長以外の、他の身体の特徴を基準に並べることは、配慮の意味を持たない。

     他の身体の特徴基準の並びは、苦痛を生む。

     だから、すべきではない。                       】

 

このとき、

教員、中央・中盤、最後尾・後方の学生が”反論”のように思うのと同じように、                         

先頭・前方の学生が、背の順について、苦痛に思っているとわかりませんか。

先頭・前方の学生は、以下のように思います。

【身長を基準に並べる背の順は、強行されているだけである。

 「前方の視認性の配慮」の意味は、教員の押し付けである。

 事実、背の順は、苦痛である。

 だから、すべきではない。                】

 

つまり、

教員、中央・中盤、最後尾・後方の学生は、

自分たちがされたら嫌なことを、先頭・前方の学生に強要しています。

背の順を、先頭・前方の学生に強要しています。

 

 

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H.「改善」

まず、並びかたを123で説明します。

次に、「前方の視認性の配慮」のための手段を4・5で挙げます。

 

今後は、学校において、整列時に

以下、1~5を併用していただければ、いいと思います。

 

「前方の視認性以外の目的のためにも、背の順という手段を使うのだ」という意見に対しては、

以下、I.「背の順に関する補足説明12個」」- 1. 教員から見た意味・合理性として挙げられるもの」で、取り上げています。ぜひご覧ください。

 

1. 基本的には名簿・出席番号順でいい。

 他には、誕生日順・アルファベット順などもあります。

 誕生日順にして、先頭の月を4月にしたり、7月にしたり、変動させるのもありです。

 稀に、「背の順がダメならば、名簿順も同様に問題になって、

 どのような並べ方もできなくなるから、背の順を強行する」と言う方がいます。

 この方は、2. 名簿順と背の順は無関係 をご覧ください。

 このような方の論点はずれていると言うことは、説明していますのでここでは、省きます。

 

 場所に優劣・良し悪し、侮辱的な意味づけがなされないことが重要

 ・名簿順の場合、

 「あ」から始まって「わ」で終わる人がいるというだけです。

  場所に、優劣・良し悪し、何らかの侮辱的意味づけ序列意識は起きないと思います。

 

 ・誕生日順の場合、

  例えば、「1月」から始まって「12月」で終わるというだけです。

  場所に、優劣・良し悪し、何らかの侮辱的意味づけ序列意識は起きないと思います。

 

 

 

2.  並ぶ順番は、好きなもの順でいい。

 つまり、並ぶごとに毎回違っていいです。

 好きな順番に並べば、一部の人が苦痛を感じたりしなくて済むと思います。

 このように言うと、

好きな順だと並ぶのに数分かかって、授業の時間が減る」と言う意見があるかもしれません。 

 しかし、学生が精神的に苦痛を感じていたらいくら授業を充実させても意味はないです。

 この時にかかる時間は、学生が苦痛なく過ごすために割くべきです。

 学生の心のために、割くべき必要な・重要な数分だと思います。

 数分も割けない授業をしていても学生にとって苦痛なだけです。

 それでも「その数分を割きたくない」という方がいるかもしれません。

 それならば、既に述べた 1.「基本的には名簿・出席番号順でいい。」

 または、以下3.「くじ引き」を使ってください。

 

 また、好きな順番の場合、一部の子が好きなところを独占して、

 権力争いやいじめにつながると言う意見があるかもしれません。

 それはあり得ます。

 しかし、好きな順番だと場所争いが起きるだろうと勝手に予測してはいけません。

 何度か好きな順で並んでどうなるか試してみるべきです。

 学生たちを勝手に未熟と見るのは、よくないです。

 教員には何かと学生を未熟と見積もりたがる方がいます。

 しかし、思いやり・譲り合いを知っている学生も多くいます。

 ですから、何でもかんでも勝手に予測して、事細かに決めるのは良くないです。

 また、場所争い等が起これば、譲り合うように呼びかけるのがいいでしょう。

 譲り合いを学ぶ機会になります。

 

 

3.「くじ引き」による整列

 「新学期の最初の授業だけ、少し時間がかかりますが、

 くじ引きをして、1年間立つ位置を決める」というのでいいと思います。

 背の順の問題は、

 「”身長”という身体の特徴で場所を強制されること」です。

 くじ引きで1年間立つ位置を決めた場合、

 それは個人の身体等の属性で決まったことではないわけです。

 立つ位置は、ただ単にくじ引きの運で決まったわけです。

 つまり精神的苦痛は、無いでしょう。

 

 私は、先頭・前方が嫌だと言っているのではありません。

 その場所が、”身長"という身体的な特徴を基準に決められるのが問題だと言っています。

 また、優劣、良し悪し、序列意識、

    そこから派生する侮辱・晒される・苦痛を感じるなどの被害が、

 良くないと言っているのです。

 つまり、くじ引きで、一番前になるならなんの問題もないです。

 さらにくじ引きでも、1年間同じ場所に固定されるのが嫌だという声があれば、

 毎回整列するごとに、一人ずつずれればいいと思います。

 毎回一人ずつずれれば、全員が先頭から最後尾まで経験できます。

   毎回一人ズレたり、何ヶ月かに一回くじ引きをして変更したり、したらいいです。

   まあ、ここまでは、しなくてもいいかとも思います。

 

 正直、.名簿・出席番号順で十分だとは思います。

 ですが、

 稀に「背の順がダメならば、

 名簿順・出席番号順も人権侵害になってどのような並べ方もできなくなるから、

 背の順を強行する」と言う方がいます。

 これは、論点がずれています。

 また、安易に背の順と、、名簿順を同じカテゴリーに分類してしまっています。

 名簿順は、身体的なことではないので、背の順とは違います

 これは、2. 名簿順と背の順は無関係 で説明しました。

 上記のように反論する方もいるかもしれないので、

 一応、背の順でもなく名簿順でもない方法をあげました。

 それが既に挙げた以下2つです。

 2.  並ぶ順番は、好きなもの順でいい。

 3.「くじ引き」による整列。

  

 また、背の順に関する私と同様の主張をしている方がいます。

 1998年に書かれた記事です。

 海外の場合、どのようにしているのか書いてくださっています。

 この方は、海外と日本の学校教育を受けた方です。

 ちなみに、アメリカは軍隊でも背の順はないそうです。

 しかし、特に問題はないようです。

 背の順がない理由は、

 おそらく、アメリカでは、人の身体的なことに言及するのは、凄まじくタブーだからです。

 身体的なことは、人種の違いと密接につながるので、人種差別となります。訴訟されます。

 身体的に並べるなんて、論外なのだと思います。

 以下が、その記事のURLです。参考にご覧ください。

 http://www.angelfire.com/wi/caretheworld/japanese/heightorder.html

 

 

4. 「前方の視認性の配慮」は希望者のみで十分です。

I.「背の順に関する補足説明12個」- 1. 背の順に対して、教員から見た意味・合理性として挙げられるもの で説明したように、背の順には「前方の視認性」は、殆ど無いです。

 しかし、前方の視認性があるという考えの学生・保護者が、

 いるかもしれないので、 一応、書きます。

 このような、学生・保護者のために、「前方をよく見たい学生は前に来て」と、

 一言呼びかければいいです。

 そして、誰も前方に来たがらなかったら、それで何も問題はありません。

   背の低い人でも、列の中盤や後方を好む人はいます。

 その人は、そこを選んだのです。

 無理に前に集める必要はありません。

 背の順のように、数ミリ単位で比較して並べる必要性はないと思います。

 ですから、前方の視認性があると思っていて、

 前方を見たいと言う学生のみに、呼びかければいいです。

 つまり、「前方の視認性の配慮」にしても「他の配慮」にしても、希望者のみで十分です。

 

 

5.「前方の視認性の配慮」として学生が座り、教師が立ち、説明する。

 これで、学生全員、前方・説明がよく見えます。

 しかも実際、学校現場では、説明を聞く時、この手段を用いてますよね。

 学生が全員立って説明を聞くというのは、ほとんどないと思います。

 つまり、「前方の視認性の配慮」という目的は、

 背の順でなくても満たすことが可能ということです。

 背の順は、苦痛を生み出すだけの余分な習慣です。

 これで、十分です。

  

――――――

正直、「前方の視認性の配慮」については、5.だけで十分です。

実際、学校ではこの方法で説明を聞きます。

学校において、立って話を聞くという場面はなかったです。

背の順は、余分な習慣となっています。

背の順は、先頭・前方の学生からすれば苦痛なので、配慮ではありません。

つまり、背の順は、必要ありません。

 

仮に、他の学生・保護者などから、「何故、背の順じゃないのか」などを尋ねられたら、

「背の順は一部の学生に苦痛を感じさせるから」ということと、

「他の手段で十分だから」ということを伝えてください。

必要ならば、このPDFを配布していただいても大丈夫です。

 

 

 

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I. 「背の順に関する補足説明12個」

1. 背の順に対して、教員から見た意味・合理性として挙げられるもの

背の順を使う理由として、以下のようなものがあると思います。

しかし、苦痛を感じている学生からすれば、意味・合理性は、ありません。

苦痛の方が圧倒的です。

これらの意味・合理性は、教員側から見たものです。

誰もが認める普遍性はありません。

教員が独善的に押し付けているだけです。

(「  」は、教員から見た意味・合理性です。それに対する、    は、私の答えです。  )

 

 

・「背の順だと、前方の視認性の配慮として行います。」

視認性は、ほとんど無い。

 これは以降の項目 3.「前方の視認性の配慮」としての背の順の実態 で説明している。

「前方の視認性」を満たすためには、学生が座り教員が立って説明すれば、十分です。

 実際、教育現場では、説明時にそうやっていますよね。

   併せて、 前方の視認性の配慮は、希望者のみで十分です。

「前方をよく見たい子は前に来て」といえばいいです。

 このことは、H.「改善」で説明しています。

 

 

・「背の順だと、自分の場所が決まっているので、すぐに並べる」

並ぶ速さを求めているのは、教員だけです。

 教員の都合優先で、学生に苦痛を強いないでください。

 背の順でなくても、場所を決めて整列は可能です。 

 例えば、名簿順・くじ引き順・誕生日順etcいくらでもあります。

 

・「背の順だと、体育祭等での行進の際、身長が近いことで歩幅が合い、合理的。」

行進は、全体でリズム・速度を合わせるので、

 背の順以外の並べ方でも、あまり変わらない。

 つまり、背の順でなくても良い。

 

 

・「背の順だと、ペア・グループワークで体格が近い人同士で組むことによって、

  安全面に配慮している。」

  ペア・グループワークの時、背丈の近い人と組んでと言えば十分。

  そして、ペアで好きなように並べばいい。並ぶのにそんなに時間もかからないです。

  背の順を使う理由にはならない。

 

 

・「背の順だと、教員から見て、整然としている。」

教員から見て整列が美しいかは、優先すべきでない。

 教員の都合優先は教育ではありません。

 それが問題を引き起こしているのでしょう。

 それより学生の苦痛を取り除いてください。

 綺麗に整っているかどうかは、学生の苦痛よりも優先されるべきことでしょうか。

 

 

・「背の順だと、教員にとって、正面からの人数確認がしやすい。」

  教員が、少し斜めから見れば全員見える。

  または、教員が列の横から見れば良いでしょう。

  または、

  H.「改善」- 5.「前方の視認性の配慮」として学生が座り、教師が立ち、説明する。で、

  説明している様に、全員が座れば、教員は正面からでも、確認しやすい。

  背の順を使う理由にはならないです。

 

 

・「背の順だと、災害時など、すぐに並ぶことができる。」

  名簿順やその他でもいいと思う。

  何より、災害は、ごくごく稀。

  頻繁に、背の順を強行する理由にはならないです。

 

 

・「背の順だと、体調不良などで、学生が倒れたときに、気づきやすい。」

  背の順でなくても、ある学生が倒れれば、周りの学生が気づきます。

  教員が気づかなくても、他の学生が気づきますし助けます。

  そして、教員に言います。

  学生が倒れたときに見やすいから背の順がいいというのは、

  あまりにも、こじつけの理由ではないでしょうか。

  つまり、背の順を使う理由にはならないです。

 

 

結局は、

背の順を使う目的は、

自分の立つ場所が固定されていることで並ぶのに、時間がかからないこと、

教員から見たときに、整って見えることではないでしょうか。

また、学生を大きさの違う石ころ・木の棒のようにしか思っていないのではないでしょうか。

すなわち、

教員は、「集団をいかに効率的に動かすか」ということばかりを考えているように思います。

しかし、そのように言う訳にはいかないので、上記の意味・合理性を言うのだと思います。

上記に挙げた意味・合理性は、背の順を強行するための、こじつけだと思います。

 

また、教員から見た意味・合理性がたくさんある時ほど、

学生の人権を侵害している可能性が高いです。気をつけてください。

 

教員から見た意味・合理性を絶対として、学生に押し付けています。

教員から見た意味・合理性が学生の苦痛を消すということはありません。

背の順で、苦痛を感じる学生が必ずいます。

上記に挙げた、教員から見た意味・合理性は、他の手段でも満たすことができます。

だから、背の順以外の手段を使ってください。

他の手段は、H.「改善」で説明しています。

 

 

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2. 名簿順と背の順は無関係

背の順の廃止を求めると、

反対意見として、

「名簿順も同様に問題になってどのような並べ方もできなくなるから、

背の順を強行する」と言う方がいます。

これは、論点がずれています。

思考停止しています。

そもそも、名簿順は身体的なことではありません。

名簿順を背の順と同じカテゴリーにすることは、論点がずれています。

安易に、背の順と名簿順を同じものとして扱わないでください。

そして、名簿順を理由に背の順を正当化しないでください。

名簿順は、先頭と最後尾に特に意味はありません。

「あ」から始まる人と「わ」から始まる人がいるという意味合いぐらいでしょう。

名簿順で侮辱etcのきっかけになるということもないと思います。

背の順を強行することの理由として、名簿順を引っ張り出すのは、論点がずれています。

私は、背の順を名簿順etcとの比較とか関係なしに、やめるべきだと言っているのです。

 

背の順が問題なのは、

成績・点数・能力などから、「高い方が良い・優れている」というイメージが波及し、

背の順において、「身長が高い方が良い・優れている」という序列意識が出来上がります。

この時、身長が低い方の学生は、苦痛を感じます。

さらに、先頭・前方は「チビ」という侮辱的意味づけが起きます。

これにより身体的なイジメ・侮辱に発展します。

また、背の順の度に身長を指摘されているような気持ちになり、苦痛です。

上記のように、優劣・良し悪し・序列意識・侮辱的意味づけが起きるのでやめるべきです。

背の順と同じカテゴリーなのは、例えば、肌の色順・髪の色順・体重順etcです。

これらは、身体的なことを基準とする並びだからです。

しかし、これらは、あまりにもデリカシーのない行いなので、常識的にしません。

私からすれば、背の順も常識的にすべきではないのです。

 

以上、名簿順と背の順の違いを述べました。

 

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3. 「前方の視認性の配慮」としての背の順の実態

 しかし、背の順で並ぶとき、前後の学生と数ミリ違いです。

 前方は、前の学生の頭で遮られています。

 頭一つ飛び出るほどの差があれば、前方の視認性はありますが。

 実際はないです。

 つまり、前方の視認性は、あまり無いです。

 

 また、前方の視認性は、背の順という手段でなくても満たせます。

 教員が立ち、学生が座れば、背の順を用いなくても前が見えて説明が聞けます。

 実際、説明時にこのようにしていますよね。

 

 また、

 実際、前に背の高い人、後ろに背の低い人という並び方をしている学校もあります。

 私の在籍した高校がそうでした。

 つまり、  背の順は、「前方の視認性の配慮」という意味で使われていない場合があります。

   前方の視認性というのは、正当化のこじつけであり、そこまで重要なことではないのです。

 

   背の順は、ただの前例踏襲です。

 実際、前方の視認性は、あまり無いです。

 実際、多くの学校では、「前方の視認性の配慮」という意味で使われていません。

 

 (一応、言っておきますが、「前方の視認性の配慮」という意味があれば、

 背の順を使っていいと言っているのではありません。

 「前方の視認性の配慮」という意味は、教員が勝手に思っているだけです。

 上記で述べた実態として、特に見やすいということはありません。

 また、背の順のとき苦痛を感じている学生からすれば、

「前方の視認性の配慮」という意味はありません。

 それよりも、圧倒的に苦痛が勝ります。

 だから、問題としているのです。                                                       )

 

 (一応言っておきますが、

 背の順のとき、背の低い子を後方、背の高い子を前方にすれば、

 ここまで説明したような苦痛は、なくなると言っているのではありません。

 背の順という”身長”を基準にした並べ方自体が問題なのです。                     )

 

 無くても学校運営に支障はありません。

「前方の視認性の配慮」という目的に対して、他の手段を使ってください。

 他の手段を 上記の H.「改善」 で説明しました。

 

 一応説明しておきますが、「前方の視認性の配慮」として

 背の順を使うことは、余計なお世話です。

 仮に配慮だとしても、過剰配慮です。

 背の順という手段によって、前方が見えて嬉しいとかはありません。

 さらに、すでに説明したように、特に前方が見えるわけでもありません。

 仮に、前方の視認性があったとしても、それによる利益よりも、

 背の順による、苦痛・屈辱感・憎しみの方が大きいです。

 つまり、仮に、前方の視認性があったとしても、

 前方の視認性の配慮なんかよりも、苦痛etcを取り除くことを優先して欲しいです。

 もう一度行っておきますが、背の順による前方の視認性は特にありません。

 

 前方の視認性が重要だというならば、

   H.「改善」で説明した、5.「前方の視認性の配慮」として、学生が座り教師が立ち説明する。

 という手段の方が優れていて、苦痛もないです。

 それに実際、学校では、そのように説明を聞きますよね。

 つまり、背の順は、前方の視認性の配慮だとしても、余分です。

 背の順は、なくてもいいです。

 前方の視認性は、すでに述べたような他の手段で十分です。

 

ここまで説明しても、前方の視認性の配慮として背の順は意味・合理性があるという方がいます。その方によると、「確かに、前方は前の学生の頭で見えないけれども、

前方の学生の肩より上から前方は見える」という理屈だそうです。

確かに、肩より上は見えますが、正面が見えるわけではありません。

また、首を左右に傾けて前方の学生の肩辺りから前を見ようとして前方が見られるのは、

前方の数人だけです。

 

なぜなら、先頭の学生以外は、肩より上から前を見ようとして、左右に首を傾けるわけですよね。

つまり、左右に首を傾けても、すでに前の学生数人がが首を傾けてみているから、

前方の学生の肩辺りから前方は見えません。

「前の学生の肩辺りから前方が見えるから前方の視認性がある」という方は、

ご自身でも相当無理なこじつけをしていると気づいていると思います。

仮に、前方の学生の肩のあたりから、前方の視認性があったとしても、 

H.「改善」で説明した、5.「前方の視認性の配慮」として、学生が座り教師が立ち説明する。

という手段の方が優れていて、苦痛もないです。

 

また、背の順以外の並べ方、名簿順などが存在する事実から、

「前方の視認性」などの意味・合理性は、そこまで重要ではないと思います。

なぜなら、そんなに「前方の視認性」などの意味・合理性が大切ならば、

名簿順をしていてはいけないからです。

しかし、名簿順は使われています。

つまり、背の順は、そんなに重要な意味・合理性を持っていないということです。

いい加減、意味づけ・合理性を言って、強行するのはやめてください。

 

私は、教員と私、どちらの言い分が意味・合理性で勝るかを論じているのではありません。

この記事で一貫して説明しているのは、背の順を用いれば、必ず一部の学生が苦痛を感じるから、背の順は、やめてくださいということです。

つまり、「背の順で、学生に苦痛を強いないでください。」ということです。

背の順は、「苦痛だ」という声を無視してまで強行するほどの習慣ではありません。

 

 

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4. 目的と手段

 ここまで、背の順の問題点を説明してきました。

 しかし、それでも「背の順は、前方の視認性の配慮だ」という方がいると思います。

 その方は、目的と手段を取り違えていると思います。

 目的が、背の順を強行することになっていませんか。

 強行するための手段として、「背の順は、前方の視認性の配慮」だと意味付けしていませんか

 配慮だという意味付けは、総意ではありません。

 現実に、苦痛を感じる人がいるのです。

 配慮という意味は、苦痛を感じない人が、押し付けているだけです。

 

 目的は、「前方の視認性の配慮」です。

 そのための手段の一つとして、背の順が行われてきただけです。

 目的に対して、手段は複数あります。

 この手段を慎重に選ばないと、誰かが苦痛を感じたりすることになります。

 誰かが苦しまない手段を使ってください。

 「前方の視認性の配慮」という目的に対して、他の手段を使ってください。

 他の手段を以上の H.「改善」 で挙げています。ご覧ください。

 

   この目的と手段の内容は、

 背の順を「前方の視認性の配慮」以外の目的に使っている場合も同様です。

 

 たとえば、以下の目的を満たすことのために背の順を使っていると

 主張する方がいると思います。

 しかし、以下のことは、背の順という手段でなくても満たすことができることです。

 よくよく考えてください。

 

「自分の場所が決まっているので、すぐに並べる。」

「体育祭等での行進をし易くする。」

「ペア・グループワークで体格が近い人同士で組むことによって、安全面に配慮している。」

「教員から見て、整然としている。」

「正面からの人数確認がしやすい。」

「災害時など、すぐに並ぶことができる。」

 このことは、I.「背の順に関する補足説明12個」- 1. 教員から見た意味・合理性として挙げられるもの     で説明しています。

 

 

何か目的があって、そのための手段があるとします。

この時、手段によって、誰かが苦しむのであれば、その手段はやめるべきです。

そして、他の手段を選ぶべきです。

他にいい手段がなければ、その目的が必要かどうか考えてください。

誰かが苦しむ手段を使ってまで、達成するほどの目的かどうか考えてください。

そこまで重要な目的ではないでしょう。

なくてもいい目的ではないでしょうか。

その目的は、誰かが苦しまないように変えられることではないでしょうか。

 

私は、誰かが苦しむならば、目的も手段も捨てていいことだと思います。

また、目的も手段も自由に変化させられることだと思います。

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5.教員から見た意味・合理性よりも学生の人権を優先してください

背の順の廃止を求めると、

反対意見として、

「体育祭等での行進の際、

身長が近いことで歩幅が合い、合理的なので背の順を使います。」という意見があります。

私は、これに対して、以下のように思います。

行進は、全体でリズム・速度を合わせるので、どうせ体格の違う人と合わせなくてはいけません。

つまり、背の順でなくても、行進は可能です。

他の並び方だと、行進できないということはないです。

また、やりにくくなるということもないと思います。

 

合理的と思っているのは、教育関係者のみではないでしょうか。

そもそも、教員側が勝手に決めていることですから、

背の順には、教員の考えしか含まれていないでしょう。

 

そもそも、行進はいらないと思います。

軍隊行動の名残だと思います。

または、来賓に見せるためのものでしょう。

いずれにしても、教員たちから見た合理性にすぎません。

いらないです。

 

教員から見て合理的ならば、

学生の”身体的な違いを元とする人権”が侵害されていいのでしょうか。

教員から見た合理性は、学生の人権より優先されるべきでしょうか。

 

私としては、教員から見た何らかの意味や合理性があれば、

人を背の順で並べてもいいという感覚が理解できません。

教育関係者の人権意識を疑ってしまいます。

また、何度も述べますが、意味やは合理性は、教育関係者が勝手に思っているにすぎません。

 

そもそもですが、

教育界では、「人を身体的なことを基準に並べたりしてはいけない」という感覚が、

ないように思います。

自分たち大人が、身体的なことで並べられたいですか。

誰かから見た勝手な意味や合理性があれば、良しとしますか。

絶対に、嫌でしょう。

だから社会は常識的に、人を身体的なことで並べたりはしません。

背の順のような、人権意識のないことをするのは、教育界ぐらいです。

背の順は、「身体的違いを元とする人権意識」の欠如の表れだと思います。

教育界が背の順を正当化するような人権意識でどうするのですか。

 

可能な限り論理的に説明をしてきましたが、

正直、ここまで論理的に説明しないと伝わらないのが、凄く異常だと思います。

もしかしたら、ここまで説明しても全く伝わっていないかもしれませんが。

理論抜きで、直感的に、人を身体的に並べるのは、人権侵害だとわかりませんか。

まず、人を身体的なことで並べようという発想が、異常です。

そのような感覚の人には、教員にならないでいただきたいです。

 

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6. 類似問題の解決方法 

 背の順に類似した問題,

 教育現場で表に出てこない問題の解決方法として以下を挙げます。

 以下のⅠ~Ⅴは、応急処置のようなものです。

 本質的には、既存の学校の構造自体を改造する必要があります。

 

 I.  各学校に生徒が気軽に提案・主張のできる環境を作る。

 例として、意見箱の設置、意見を送れるメールアドレス・ホームページを作る。

  時代的に、意見箱よりメールアドレス・ホームページがいいです。

  

 (ただし、

 1. 担任がこれらを管理すべきではない。

     担任とうまくいかず問題が生じている場合も多々あるからです。

   担任との問題を担任が読むのでは解決しないでしょう。

   また、関係悪化につながります。

 

 2. 匿名可能にしておく。

   個人的なことも多々あるからです。

     

 3. 教員が理解できるかを基準に判定してはいけない。

    何故なら、多くの場合、学生は言葉でうまく説明できないからです。

  また、苦痛により、冷静でない場合もあります。

  また、苦痛を感じている学生が、苦痛の原因と理由を説明するのは、

      屈辱的でもあります。

  だから、学生が説明しなくても、できなくても、説明したとして理解できなくても、

  学生が要求するように変えてあげるべきです。

  つまり、「嫌だ」という拒絶だけで、それを受け入れるべきです。

  言葉で説明するのが難しい時期だからこそ、「感情」を尊重すべきです。

  そうしなければ、意見の言える環境を作ったところで、

  殆どの意見が却下され、実質的に、禁止制度として機能してしまいます。

  そして、どうせ否定されるだけだからという風潮が出来上がり、

  誰も意見を言わなくなります。 

  誰も意見を言わないならば、問題はなくなったのか。

  いいえ、そんなことはありません。   

  実質的に機能しなければ、主張できる環境を作った意味がありません。              )                                      

 

 そもそも、私のような、学校で苦痛を感じていた学生が、

 大人になって外部から意見を言わないといけない状況に疑問を感じます。

 何故、学生の時に気軽に提案・主張することが許されていないのか、

   環境がないのかと思います。

 教育機関として、学生の意見を聞くことの重要性に気づいてください。

 本来は、教育現場で聞いて、改善をする必要があります。

 

 

II.  学生の意見を聞き、生徒の人格を尊重できる教員増やす。

 

 威圧、罰則を使わない教員、

 学生の意見を受け入れ、問題の根本を改善できる教員を増やす。

 

 率直に申し上げますと、教員がかつて学校が楽しかった人たちが多いです。

 基本的に、学校肯定派の教員が、

 問題を抱えている学生に対して行うことは、的外れなことがほとんどです。

 その中でも”指導”・”罰則”は、特に間違いです。

 教員が指導と思ってやることは、学生の憎しみを深めます。

 指導・罰則を行えば行うほど、学生は反発します。

 

 学校では、”指導”・”罰則”が頻繁に用いられます。

 この、言葉は、”正しい人”が、”悪い人”を正すという意味合いが強いです。

 しかし、”悪い”とされた人は、苦痛を感じていたりします。

 苦痛の原因が、学校で行われている習慣だったり、規則だったりします。

 その事実を知らずに、一方的に”悪い”と決めつけています。

 これを教育と言えるのでしょうか。

 “尊重”・”対話”を用いて、苦痛の原因を知る。

 そして、原因を取り除く。

 これが教育だと思います。                                            

 

教員は、学校が楽しかった人たちですから、

そのような人たちの感覚でやることは、問題を抱えている学生を追い込みます。

指導・罰則は、しないほうがいいです。

 

採用する教員にしても、学校に対して否定的な教員が、

学校に貢献してくれる部分は大きいと思います。

だから、学校に否定的な人を教員に採用するのは、何もデメリットでは無いです。

学校は、似たような考えの教員ばかりが集まっている状況に思います。

他の意見も取り入れるためには良いと思います。

しかし、そもそも、学校に否定的な人は、教員になりたがらないです。

それでも、私としては、いくらか否定的な人に教員になってもらいたいです。

 

 

学生が取る言動の理由を考える。

 

   学生が問題とされる言動を行うのは、苦痛から逃れるためです。

 その理由を聞く必要があります。

 何を苦痛に感じているのか、聞く必要があります。

 

(一応言っておきますが、

「何としても理由を問い詰める」という意味ではありません。

 人には、理由があっても、言いたくない場合があります。

 その場合、理由を聞くのは逆効果になります。         )

 

 多くの教育現場では、理由を考えません・聞きません。

   とにかく罰則というやり方が横行しています。

 これでは、問題解決はしません。

 苦痛に苦痛(罰則)を重ねることになります。

 罰則により、信頼関係がなくなります。

 信頼しなくなれば、後から理由を聞いても何も答えなくなります。

 罰則により、表面上従うかもしれません。

 しかし、苦痛を生み出す根本を解決しなければ、

 他の場所で、他の形で、取り乱す・不登校・非行etcの行為に出ます。

 やはり、根本の苦痛を取り除く必要があります。   

 

 

.  問題を抱えている学生は、

  許可なく気軽に欠席・早退etcすることができるようにする。           

 問題を抱えている学生は、苦痛を感じています。

 しかし、その原因が何なのかが自分でもわからないことが多々あります。

 問題の原因を突き詰めるには、多くの時間が必要です。

 また、苦痛を癒すには、多くの時間が必要です。

 問題を抱えている学生にとって、教員に相談することだけでも相当な労力です。

 そのためには、わざわざ教員から許可をもらうことなく、自由に欠席できる方がいいです。

 

 具体的には、全学生に対し、

 「そもそも、学校は、義務・強制ではない。」と頻繁に言うべきです。

 「つらくなったら、許可なく自由に休んでいいよ。」と頻繁に言うべきです。

 不登校は、何も問題行為では無い」というべきです。

 

 学校を休むという、本来ある権利を明言せず、学校に来ることを強要すると、

 回避できることを回避できずに大きな問題が起きます。

 

 

. 不登校は、問題行動ではない」なってもいいよと言うべき。

 不登校は何も問題行動ではありません。

 学校に戻そうとしてはいけません。ゆっくり休ませてあげてください。

 その学生は、学校・教員・人間関係・規則・習慣などを嫌悪している場合が多いです。

 学生の感性を矯正して、学校に戻そうとしてはいけません。危険です。

 そんな簡単に感性は変化しません。

 不登校の学生には、学校に行きたくない理由が必ずあります。

 学生のときには、うまく説明できないだけです。

 

 不登校という言葉自体、学校側から見た言葉です。

 学校側を正義とした、単語だと思います。

 学校に合わない子は、必ずいますし、いて良いのです、何もその子は問題ありません。

 それよりも、学校側の規則・習慣・教員・学生に問題がないか、よく考えてください。

 原因を突き詰めると、イジメ・教員からの暴言・暴力・規則習慣による人権侵害などあります。

 

 教員は、学校が楽しかった方が多いと思われます。

 ですから、学校が楽しい前提になっているでしょう。

 また、必ず行く前提になっているでしょう。

 しかし、学校が苦痛である学生がいる前提を持ってください。

 苦痛を感じている学生がいることを想像してください。

 その学生からしたら、「何で苦しいのに、学校に行かないといけないのだ」と思っています。

 そのような事実を、知ってください。

 全ての学生が、教員のように学校を楽しいと思うわけではないと知ってください。

 

 

. 学校には、人権侵害が多々存在すると知ってください。

  教員の多くは、学校が居心地良かった人たちです。

  故に、学校には人権侵害・苦痛がないと思っているかもしれません。

  しかし、沢山あります。

  その前提を知ってください。

      そして、教員は意図していなくても、人権侵害を行っており、

  学生に恨まれたり、嫌われることを知ってください。

      そもそも、現状の教育システム自体が、教員が決めたことを、

  学生に一方的に押し付けることを前提にしています。

  そうでないと、成り立たないのか、そうしたいのかは、わかりませんが。

  既存のシステムを続けるべきでは無いと、わかってください。

  背の順にしても、他の問題にしても、解消していかないと、

  学生は、心に憎しみ・屈辱感を抱きます。

  そして、イジメ・非行・ケンカなどが生じます。

  

    

.  拒絶権・離脱権を認める。

 (そもそも、権利を教員に認めてもらわないといけないのが異常です。

 しかし、現状では、自身の心身を守るために教員の許可が必要なので、

 「拒絶権・離脱権を認める。」としました。            )

 

 人には、強要されたら絶対に嫌だということがあります。

 そして、その理由を言いたくないことがあると思います

 だから、教員が納得する理由がなくても、

「嫌だ」という拒絶の態度だけで、それを尊重した方がいいです。

 

 学生が拒絶をしたら、離脱を認めるべきです。

 そして、学生が授業に参加したい場面になったら、受け入れるべきです。

 拒絶したら、「何か理由があるのだろう」と思ってください。

 何か理由があるとして、そっと放っておいてもらったほうがいいです。

 

 「理由を言ってみろ」と繰り返す教員は、不適切な対応をしています。

 その理由を言いたくないから問題なのです。

 理由を言わないのは、理由がないからではありません。

 また、「理由を言ってみろ」と言っている時、教員が理解できる理由を求めてしまっています。

 理解できない理由ならば、”わがまま”などとして終わらせるでしょう。

 学生は、教員が理解できる理由を求めていることを察知し、本音は言いません。

 こうして、理由を言えない状況が出来上がります。

 

つまり、理由をしつこく聞くのは、逆効果です。

 

理由はいらない・重要では無いと思います。

「理由は何だ」というのは、1回程度は聞いてもいいと思います。

しかし、しつこく聞くのは間違いです。

言いたくないから問題なのです。

そもそも、理由は重要ですか。

理由を言えば、改善してくれますか。

理由を言っても、理解しない・できないのでは無いでしょうか。

また、教員から見た意味・合理性があるからといって押しつぶすのではないでしょうか。

 

「ひとりの例外を許したら、他の学生から文句が出る。他の学生も拒絶・離脱する。」

ひとりでも離脱者を許したら、他もそれに続くといけないから、

例外を認めないというのは、同調圧力を生み、イジメなどの問題につながります。

例外は認めるべきです。みんなが同じである必要はありません。

仮に、一人の例外を許して、他の学生も例外の側に行きたいというのならば、

その学生たちも例外としたらいいです。

授業を希望する学生が1人でもいればその一人に対して授業をすればいいです。

仮に、授業を受けるのが0人になったら、それは需要のないことをしているという事実です。

それに、例外を認めたとしても、授業を受けるのが0人ということは、

さすがに起こらないと思います。

 

私の場合、背の順が苦痛でした。

私が拒絶し離脱したからと言って何か問題あるでしょうか。

例えば体育の場合、

整列が終わって、科目の内容が始まるまで、ひとり離脱していたら問題でしょうか。

ひとり、体育館の端で整列が終わるのを待っているというだけです。

何も問題はないと思います。

 

しかし、

「離脱・拒絶を認めれば、他の学生に示しがつかない」と言う方がいそうです。

そんなに、他の学生から見た体裁が重要でしょうか。

教員の威厳が無くなるとか思うのかもしれませんが、そんなことないです。

教員の威厳とは何の関係もないです。

世間体を気にした教育は、やめにしませんか。

学生の違いを尊重した方が、わかってくれると言うことで、信頼も出来上がると思います。

 

体裁ゆえに、例外を認められない原因は、

集団教育・管理教育・全体主義、を掲げているからです。

これらは不幸なシステムです。

みんな違うと言う前提を無視した手法は、人間の根本を無視し、不幸を量産します。

 

 

. 教育・指導と称しての、暴力・暴言・恫喝は、本当に危険です。

  これらは絶対にしないでください。犯罪行為です。

  学生の心が押しつぶされます。

  誇張ではなく、自殺者が出ます。

  現に、多くの学校で出ています。

  教員により多くの学生が殺されています。

  多くは指導死・体罰死として扱われますが、これは殺人事件です。

  刑事事件です。

  教員の方は、その自覚がないのかわかりませんが、確実に人の命を奪っています。

  教員は、自覚ないのかもしれませんが、学生からすれば、

  教員に追い詰められるのは、精神的にすごくつらいです。

 

  これは誇張ではありません。

  学生時代に自殺者が出なくても、その後に、後遺症で自殺するかもしれません。

  それくらい考えてください。

 

  何度も申しますが、学生の言動には必ず理由があります。

  それを上手く言い表せなかったり、言いたくないのです。

  屈辱的だから言いたくなかったり、プライドが邪魔したり、

  個人的・身体的なことであったりします。

  何よりも自分の思いを他人に話すという習慣がないことが大きな壁です。

  

  だから、「理由を聞いたけど何も言わないから、理由はない。学生のわがままだ」として、

  学生が悪いという扱いはしないでください。

  何度も言いますが、理由が必ずあります。

  

  「学生に、理由はない」と思いたいのは、教員の勝手な思いです。

   理由もなく、突然おかしなことをする学生とした方が、

   教員を絶対的な正義とできるからです。

  そのように思った方が、考えなくていいので楽だからです。

  

  そもそも、「教員が理由を聞いたのだから、応えるべきだ」というのは、

  横暴ではないでしょうか。

  人は信用できる人・心を許した人にしか理由を言わないと思います。

  それを鑑みずに、「俺に言わないならば理由はないとみなす」というのは、

  あまりに横暴です。

  正直、教員という存在は、相談相手として、適役じゃないです。

 

  本当に、威圧的な言動はやめてください。

  自殺者が出ます。

  本当に、やめるべきです。責任取れますか。

  死んだ人を生き返らせられますか。

 

 

. 本音を自己主張できるようにする。

 一番のセーフティネットは、自分の本音を現場で即言える環境ではないでしょうか。

 率直に言えれば、問題がわかりやすく、解決しやすくなります。

 そのためには、主張する教育を行う方がいいです。

 思いを主張できる教育をした方が、将来的にもいいです。

 普段から、言葉で表現する習慣がないと、

 困っている時自分の思いを言えない人になってしまいます。

 そのような人は、苦痛を自分のうちに押し込んでいづれ爆発させます。

 だから、幼少期から、主張する教育をした方がいいです。

 

 

. 問題は、カウンセラーに対応してもらう。

 問題を抱えている学生は、スクールカウンセラー・外部カウンセラーに任せた方がいいです。

 (ただし、注意していただきたいのが、

  スクールカウンセラーだと、十分じゃないということです。

  学生は身構えてしまうかもしれないということです。

  問題を抱えている学生は、学校というものに不信感を抱いています。

  カウンセラーであっても、学校内にあるカウンセリングであるならば、

  不信感を持ってしまい、本音で相談できないかもしれないです。   )

 

 何故ならば、教員は相談相手としては、適役じゃないからです。

 教員・学校によって苦痛を感じていたら、教員に相談できないでしょう。

 教員は、学校が楽しかった人です。

 学校により学生が苦しんでいることを、理解できないと思います。

 

 また、教員は、カウンセリングなどの実務経験はないです。

 そのような人に相談に乗ってもらっても、

 威圧されたり、理解がなかったりで、不愉快になるだけです。

 教員は、学生の意見を受け入れるだけの器を持っていない方が多いです。

 また、学校・教員が正しいという偏見を持っています。 

 教員の方は、物事を多面的に見れない方が多いと思います。

 このような人は、学校・教員が正しいとして、学生を追い込んでしまいます。

 

 以上より、教員は相談相手として、適役じゃないです。  

 

 

 

. フリースクールオルタナティブスクール・通信制などを勧める。

  教員は、公教育以外の教育の存在を知っている方がいいです。

  何か問題を抱えている学生に対して、フリースクールなどを紹介してあげた方がいいです。

  もっと言うと、フリースクールなどと、学校が連携できていた方がいいです。

  一応言いますが、「嫌ならやめろ・出て行け・いなくなってもいい」などの言葉は、

  紹介ではなく暴言です。

    問題を抱えている学生に対して、上記のように言う教員が結構います。

  もはや、教育ではなく、ただの暴言です。

  

  

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-

7. 背の順は、卑劣の多重構造

 背の順は、卑劣です。

 主に以下、7つの事実があります。

 これらは、わかりにくいことです。

 しかし、確実にそこに存在しています。

 わかりにくいがゆえに、表に出ない、共感されない、説明が難しいです。

 そして、デリケートなことです。

 そのような要素が少なくとも6つ組み合わさっています。

 

1. 背の順は、序列関係を作り出しています。

  確実にあります。

  これは、「点数・成績・運動能力」などの「高いほうが良い・優れている」という概念から、

  波及し、「身長」についても「高いほうが良い・優れている」となり、形成されます。

  しかし、苦痛を感じていない人は、そのようなことはないというでしょう。

  

      さらに、幼少期の世界は、力こそがものをいいます。

  背の「高い」方が、力が「強い」という事実があります。

  背の順は身体的弱者を際立たせています。攻撃しろと言っているような行いです。

  学校では、体の大きな学生に、突然、攻撃をされ、

  屈辱感・劣等感を刷り込まれることもあります。

  つまり、身長が「高い」方が「良い」という風潮に拍車がかかります。

    

   また、幼少期の世界は、

  運動ができる方が「良い」・「優れている」とされるところがあります。

  背の「高い」方が運動に「有利」です。 

  つまり、身長が「高い」方が「良い」という風潮に拍車がかかります。

 

 「高い」方が「優れている」・「良い」という風潮から、

  背の低い人を侮辱する人も出てきます。 

  侮辱により、屈辱感・劣等感を刷り込まれます。

 

 

  ここに、卑劣さがあります。

  言ったら批判されるから、

  言葉として「身長が高い方がいい」「低いのは欠点だ」とは言いません。

  しかし、雰囲気として確実に序列関係があります。

  また、態度・扱いとして確実にあります。

  背の順により、確実に序列関係が発生するにも関わらず、それを無いといい、

  苦痛だという人たちの”わがまま”・”被害妄想”とすることが卑劣です。

  

  実際、背の低い学生は、背の順の順番を決める時に、一番前になることを嫌います。

  非常に不名誉だからです。

  背の順で並んでいる時の先頭・前方の学生の顔をよく見てください。

  不愉快・苦痛・憎しみ・暗い表情をしていると思います。

  

  序列関係や雰囲気の存在は、

  「先頭・前方の学生の被害妄想だ」という意見がありそうです。

  しかし、私を含め多くの方が、背の順に対して苦痛を感じている事実があります。

  仮に被害妄想だと言われたとしても、

  背の順で並ばせられたら、苦痛が生じることに、変わりはありません。

  つまり、背の順で苦痛を感じる人がいることは、現象的な事実なのです。

  

( 以下のURLは、私と同様の考えの人が書いたものです。

 これ以外にも、「背の順 差別」「背の順 廃止」などで、google検索してみてください。

 同様の記事や質問が多々あります。

 http://www.angelfire.com/wi/caretheworld/japanese/heightorder.html 

 https://senkokugoshochi.com/koharu/in-descending-order/ 

 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsshs/theme/pdf/2006/2006_kazoku_11.pdf 

 https://toyokeizai.net/articles/-/24771?page=3                                                  )

 

 

2. 学校で行われる比較が波及し、学生は何でも比較してしまいます。

  学生は、何かと競争をさせられます。

 成績・運動etc何かと競争を煽ります。

 そしてその結果を並べたりします。

 背の順に並べられても比較しないことを学生に求めるべきでしょうか。

 それは、悟りの境地ではないでしょうか。

 仏教の修行をしても難しいことでしょう。

 大人だってできることではないでしょう。

 つまり、背の順は、意図していなくても必ず比較につながります。

 

 ここに、卑劣さがあります。

 普段何かと競争をさせられ、結果を並べられています。

 身長で並べられたら必然的に、比較が起きます。

 想像できることだと思います。

 学生が背の順の時だけ、都合よく比較しないと思いますか。

 そんな都合のいいことはないです。

 

 

3.  背の順を作るとき、学生同士が身長を比較して場所が決まります。

  つまり、背の順は、身長の比較により構成されています。

  背の順は、必ず、身長の「比較」という要素を含んでいます。

  それにもかかわらず、「身体的に比較しているのではないよ」というのは欺瞞でしょう。

  

  ここに、卑劣さがあります。

  背の順は、身長を「比較」することで形成されているにも関わらず、

  身体的に比較しているのではないというのは、事実を嘘で隠す行いだと思います。

  背の順が「比較」を確実に含んでいるのに

 「そんなものはない」と嘘をついている状況です。

 

 

4.   背の順は、隠された、人権侵害です。

  明らかな人権侵害は、わかりやすいので、行った人は批判されます。

  だから、しません。

  例えば、髪の色・肌の色・体重・容姿etcで並べたら、明らかに人権侵害です。

  これは、明らかに誰でもわかります。

  しかし、背の順は、教員からすれば、意味・合理性があるように見えます。

  

  以下、教員から見た意味・合理性を挙げておきます。

  「前方の視認性」「自分の場所が決まっているので、すぐに並べる」

  「体育祭等での行進の際、身長が近いことで歩幅が合い、合理的。」

  「ペア・グループワークで体格が近い人同士で組むことによって、安全面に配慮している。」

  「教員から見て、整然としている。」

  「教員にとって、正面からの人数確認がしやすい。」

  「災害時など、すぐに並ぶことができる。」

  「体調不良などで、学生が倒れたときに、気づきやすい。」

 

  教員により、背の順には、上記のような意味・合理性があるというシールが貼られます。

  しかし、そのシールの下には、人権侵害が隠されています。

  つまり、静かな人権侵害です。隠された人権侵害です。

  静かなのでたちが悪いです。隠せるのでたちが悪いです。

  陰湿な人権侵害です。

  意味・合理性という大義名分を利用した、人権侵害です。

  認知されにくいがゆえに、根が深い人権侵害です。

 

  背の順には意味・合理性があると思っている人の恐ろしいところは、

  意味・合理性さえあれば、髪の色・肌の色・体重・容姿etc

  並べることも正当化するかもしれないところです。

  今のところ、意味・合理性は見出せないから、

  髪の色・肌の色・体重・容姿etcで並べていないだけなのでしょうか。

  もしそうならば、「人の根本的な違いに対する人権意識」がないように思います。

  教員から見た意味・合理性よりも、人権を重視してください。

  人を身体的な基準で並べてはいけないという意識を持ってください。  

  身体的に並べることは、必ず人権侵害を起こします。

 

  ここに、卑劣さがあります。

  背の順には、教員・その他から見た、意味・合理性があるように見えるので、

  反対意見をねじ伏せようとします。

  背の順という習慣・システムが、必ず誰かを苦しめるにも関わらず、

  苦痛を感じない人から見た大義名分で覆い隠すところが、すごく卑劣です。

  教員から見た、意味づけ・合理性がある規則・習慣ほど、

  その裏で学生の人権侵害をしていないか考えてください。

 

 

5. 背の順は、身長という身体的なことが関わるのでデリケートなことです。

  非常にデリケートなことなので、声をあげられないです。

  また、屈辱的だから声を上げられません。

  

  ここに、卑劣さがあります。

  身体的なこと・コンプレックスetcを、他人に話そうと思わないのは当たり前です。

  知られたくないことです。

  相談できない・しにくいことを、攻撃してくることが卑劣です。

      よく考えてください、「身体的なこと」ですよ。

  人の最も根本的な個性ですよ。

  並ばせられ、学生間では、優劣・良し悪し・序列意識・侮辱的意味づけがなされます。

  そして、最も根本的なことを晒されたり、侮辱されたりするわけですよ。

  凄くつらいとわかりませんか。 

  最近、全国の学生が自死する事件が相次いでいます。

  報道はされていなくとも、

  その中に、背の順・侮辱を苦に自死した学生がいてもおかしくないです。

  おそらくいると思います。それくらい、つらいです。

 

 

6.  苦痛を感じるのは数人なので、個人の”わがまま”・”被害妄想”としてラベリングをされる。

  背の順で苦痛を感じるのは、先頭・前方の学生です。

  ゆえに、一見、個人の”わがまま”、”被害妄想"、として扱われます。

 

  ここに、卑劣さがあります。

  まず、少数の人を攻撃することが卑劣です。

  被害にあうのが少数の人だから、

  少数の人たちの"わがまま"や”被害妄想”と言える余地があり、

  “わがまま”、”被害妄想”として押しつぶすことが卑劣です。

  精神的なことなので、少数の人の”わがまま”、

  ”被害妄想”と言って改善しないことが卑劣です。

  誰かが「これが苦痛だ」と言っていたら改善するぐらいの寛容さがあっていいと思います。

 

 

7. 現実として、背の低い学生は、幼少期に散々侮辱、イジメ、からかいをうけます。

 そして、そのようなことがあるのは、現実として、

 背の高い方が、優れている、良いという風潮 があるからです。

 この事実を踏まえて、背の順というのは、

 現実に差別対象になっている背の低い学生を目立たせることをしています。

 凄く卑劣で差別を助長する行です。

 そのような風潮はない。という方は、背の低い学生の立場じゃないからわからないだけです。

 

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8.  背の順で一番前は、不名誉

教員の方は、知らないかもしれませんが、

背の順で一番背が低いとされる先頭になることは、不名誉なことです。

一番先頭になったことにより、侮辱・イジメ・からかいのきっかけになります。

多くの学生は、背の低い子は先頭になりたくないと思っています。

実際、背の低い子は背の順を決めるときに、一番前になりたくないという反応をします。

しかし、教員は強要します。

教員は、「一番前なのは、あなたが一番低いから仕方ないでしょ」と言わんばかりです。

しかし、私としては、人を身体的に並べることに異常さを感じないのかと思います。

どういう人権意識をしているのだろうと思います。

あなたは、自身の身体的なことを、公にされたいですか。

身体的なことで並べられて、末端になりたいですか。

身体的なことで並べる限り、末端の人が、苦痛を感じたり、

侮辱・からかいの対象になったりすることは想像できると思います。

なぜ、このようなデリカシーのかけらも無い人権侵害が平気で行われているのかと思います。

 

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9. 教育現場で表に出てこない理由

1.   背の順の問題は、現場で表に出ません。

  先頭・前方の学生は、背の順により、身長をコンプレックスにしているので、

  声をあげられません、教員にも相談できません。

  人はコンプレックスを、家族にも言いたがらないものです。

  ましてや、他人である教師に相談しないでしょう。

  背の順は、身長という身体的なことが関わるのでデリケートなことです。

  非常にデリケートなことなので、声をあげられないです。

  また、屈辱的だから声を上げられません。

 

  知られたくないことです。

  相談できない・しにくいことを、攻撃してくることが卑劣です。

      よく考えてください、「身体的なこと」ですよ。

  人の最も根本的な個性ですよ。

  並ばせられ、学生間では、優劣・良し悪し・序列意識・侮辱的意味づけがなされます。

  そして、最も根本的なことを晒されたり、侮辱されたりするわけですよ。

  凄くつらいとわかりませんか。 

  最近、全国の学生が自死する事件が相次いでいます。

  報道はされていなくとも、

  その中に、背の順・侮辱を苦に自死した学生がいてもおかしくないです。

  おそらくいると思います。それくらい、つらいです。

 

 

2.   背の順が苦痛だと言っても、共感されないだろうと思い言いません。

  教員は、その学生と同じ立場ではないからです。

  教員は、かつて学校が居心地の良かった人たちです。共感できないわけです。

 

 

3.    説明しても、理解できないだろうと思い相談しません。

  説明をしても、教員から見た意味・合理性を押し付けられると思っています。

  理解されなかったたり、否定されたら、さらに傷つくからです。

 

4.   心身ともに疲れ果てているため、相談する気力もありません。

 

 

5.   教員が原因だから、相談しない。

  背の順を強要するのは、教員です。

  強要してくる人に、相談・お願いをするのは屈辱的です。

  端的に言えば、敵に媚びないといけない状況だからです。

 

 

ゆえに、学校現場で、「背の順が苦痛だ」という声は、出てこないです。

だから、私は、大人になった今、外部から改善をお願いしています。

 

教育現場で、苦痛だという声が上がっていないから、

背の順は問題ないというのは、間違いです。

上記で述べた理由があります。

また、現状の学校教育は、自分の感情・苦痛・意見を言えるような環境がありません。

言えるような教育・文化がありません。

すなわち、苦痛は心の中に押し潰すように教えてしまっています。

その現状の教育・文化による影響を考慮すれば、感情・苦痛・意見が挙がらないのは当然です。

 

この背の順の廃止のお願いは、

私の個人の経験とweb上で多数同様の声が見られたので、行なっています。

「背の順 差別」・「背の順 廃止」 などでgoogle検索して見てください。

教育現場で生徒から直接声が上がっていないから、問題はないと思いますか。

身体に関わるセンシティブな内容なので、教育現場で声として上がらないのが現実です。

 

 

――――――

10. 背の順を教員の主観で捉えない。

 また、背の順の問題を、大人視点で捉えないでください。

大人は普段、背の順で並ばせられたりはしません。

子供たちとは、状況が違います。

しかし、子供たちは毎日のように、背の順で並ばせられます。

さらに、身体が変化する時期です。

身体の変化が気になったり、他者と比較する時期です。

この時期に、学生を身長という身体の基準で並べているわけです。

あまりにもデリカシーに欠けると思います。

背の順が子供達の心に及ぼす被害は大きいです。

早急に、廃止してください。

 

 

可能な限り論理的に説明をしてきましたが、

正直、ここまで論理的に説明しないと伝わらないのが、凄く異常だと思います。

もしかしたら、ここまで説明しても全く伝わっていないかもしれませんが。

理論抜きで、直感的に、人を身体的に並べるのは、人権侵害だとわかりませんか。

まず、人を身体的なことで並べようという発想が、異常です。

そのような感覚の人には、教員にならないでいただきたいです。

 

 

――――

11. 背の順は、デリカシーがない

社会で大人たちを、背の順で並ばせたりしますか。

おそらく、背の順で並ばせたら、結構な問題になると思います。

学生だったらいいのでしょうか。

学生ならば、問題ではないのでしょうか。

大人でも身体的なことで並べられたら嫌でしょう。

学生でも同じです。

本来、人に対してすべきじゃないことをしているわけです。

 

背の順を、ほかの並べ方で例えます。

背の順と同じカテゴリーなのは、例えば、肌の色順・髪の色順・体重順・容姿順etcです。

身体的なことを基準とする並びですから、同じカテゴリーです。

しかし、これらは、人権侵害に該当するので常識的にしません。

では、背の順はどうでしょうか。

背の順も人権侵害でしょう。

教員から見た意味づけ・合理性があれば、人を身体的なことで並ばせてもいいのでしょうか。

どんな意味づけをしようと、人を身体的なことで並ばせるのは人権侵害です。

さらに、意味づけ・合理性は、教員から見たものでしかありません。

誰もが、教員と同じ考えをしているわけではありません。

教員の考え方が、絶対普遍で正しいわけではありません。

――――

12. 廃止にこだわる理由

何故、廃止にこだわるか説明します。

整列方法というのは、習慣です。

規則として決まっているものではないわけです。

つまり、教員任せです。

廃止という決め事にしないと、背の順で嫌な思いをしたことのない人が教員になり、

それ以降の世代にも、これが繰り返されるからです。

この連鎖を断ち切るために、背の順を使わないように規定して、廃止してください。

現状では、整列方法は、教員の人権意識任せなわけです。

人権意識のない教員が背の順を使えば、その時嫌な思いをしなかった学生は、

背の順が当たり前だと思います。

その学生が、教員になったらどうなるでしょうか。

自分が、嫌じゃなかったからと、疑問も持たずに背の順を使うでしょう。

すると、次の世代に拡大拡散します。

恐らく、背の順は、軍隊の名残です。

上記のように、拡大拡散して今の代まで拡散したわけです。

今、背の順に違和感を持っていない教育関係者は、背の順で嫌な思いをしなかった人たちです。

ゆえに、私が廃止してくださいと訴えても、中々わかってもらえないです。

 

背の順は、身体的なことで、場所を強制されるということで人権侵害の案件に該当します。

教育委員会が改善のために動いてくださらないのならば、

私は司法に委ねることも考慮しています。

それぐらい廃止の必要性を感じています。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

J. 「最後に」

背の順は、以下のように分類できます。

(前方に背の低い学生、後方に背の高い学生という順に並べたとします。)

①:先頭・前方 (背の順を苦痛に感じる学生のいる位置)

②:中央・中盤

③:最後尾・後方                    

 

背の順の問題は、現場で表に出ません。

先頭・前方の学生は、身長をコンプレックスにしているので、

声をあげられません、教員にも相談できません。

人はコンプレックスを、家族にも言いたがらないものです。

ましてや、他人である教師に相談しないでしょう。

また、教員・中央・中盤や最後尾・後方の学生に、

苦痛を共感してもらえないので言えません。

学校現場で、「背の順が苦痛だ」という声は、出てこないです。

だから、私は、大人になった今、外部から改善をお願いしています。

 

日本全国で、背の順が使われています。

多数の学生が、苦痛を感じていると思います。

私の問題提起は、氷山の一角と思ってください。                                                      

 

前例踏襲が楽という考えはやめてください。

教員にとって背の順が楽だから、という考えもやめてください。

苦痛を感じる学生がいるのです。

 

共感できる場合、改善をしていただきたいです。

 

共感できない場合、

共感できないから、改善しないというのならば、

改善の決定権を持った人が共感できることだけしか、

改善されないことになります。

少数の人は苦痛を感じ続けることになってしまいます。

共感されなくても、事実、存在します。

事実、起こっています。

事実、苦痛です。

ですから、

共感できない場合でも、

事実、背の順で苦痛を感じる人がいることを知ってください。

そして、共感できない上で、改善していただきたいです。

(経費・人手のかかることでは、ありませんから改善は簡単です。)

 

背の順により、先頭・前方の学生が、苦痛を感じる  と説明しました。

これは、私の実体験とWEB上で同様の意見が複数あったことから説明しました。

しかし、

中央・中盤、最後尾・後方  の学生が、苦痛を感じている可能性もあります。

身長という身体の特徴で並べる限り、多くの学生が苦痛を感じていてもおかしくないです。

 

 

また、私の主張と同様の内容が、webに多数あるので参考にしてください。

以下、4つ程挙げます。

もしかしたら、リンクできない時があるかもしれません。

 

これ以外にも、「背の順 差別」「背の順 廃止」「背の順 おかしい」

「背の順 体育」「背の順」などで、google検索してみてください。

 同様の記事や質問が多々あります。

 

特に,一つ目のURLをご覧ください。

20年前、1998年に、問題提起されています。

つまり、かなり昔から苦痛を感じる学生は多数いたと言えます。

 

 http://www.angelfire.com/wi/caretheworld/japanese/heightorder.html 

 https://senkokugoshochi.com/koharu/in-descending-order/ 

 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsshs/theme/pdf/2006/2006_kazoku_11.pdf 

https://toyokeizai.net/articles/-/24771?page=3           

https://anond.hatelabo.jp/20131019174659

http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/Ekkyo/data/chunks/manazashi.html

https://www.ikumen-kotanosuke.com/senojun/                                         

https://www.ikumen-kotanosuke.com/senojun/

 

ブログに書いたり、文章にして送るということは、

それほど背の順が苦痛であり、憎んでいることの証明です。

背の順は全国の学校で使われています。

背の順で苦しめられた人が多数いて、その傷も深いと思います。

そして、何より、今も全国の学校では、背の順で苦しんでいる子供達がいます。

早急に、改善をお願いします。

 

 

 また、共感いただける方は、改善を求めてくださると嬉しいです。

文部科学省

http://www.mext.go.jp/mail/index.html 

国公立の学校であれば、

教育委員会(全国教育委員会一覧:文部科学省

http://www.mext.go.jp/b_menu/link/kyoiku.htm  

私立の学校であれば、

都道府県の私学課(都道府県私立学校主管部課一覧:文部科学省

http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shinkou/07021403/009/001.htm 

 

 

 

学校の諸問題

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

補足説明22個

1. 人権尊重の円の拡大

2.  罰則に意味・効果は、ない。

3.  規則・習慣は見直す。

4. みんな違うを基準にする

5. 人は根本的に違うことを理解できていない

6. 個性尊重・多様性尊重

7. これまで、背の順は問題として出なかったぞという方々

8. 組織の問題か、個人の問題か。

9. 学生が嫌がることは、単純にしないほうがいい

10. 本当に学ぶべきは、教員

11. 整列はいらない

12. 体育教育の改善。

13. 学校教育と蜘蛛の巣

14.  副産物はいらない。

15. 学校教育において、いらないと思うものを挙げます。

16.集団教育は、不幸なシステム。

17.  既存の教育は「学生を悪」とすることから始まっている

18. わがまま、ではない

19.”何でもかんでも、教員が独断で決める”。これが不幸の始まり。

20. 教員は、業が深い

21.ラベリングによる正当化

22. 先生という概念は使わない方がいいです。

23. 教員に注意していただきたいこと

24.いかにして、学生の苦痛・不快をなくすかが重要

25.  協調性の定義を考える

26. 教員の視点を優先することは、教育ではない。

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学校の構造的な欠陥と改善について

1.  既存の学校教育の構造的欠陥

2. スクールカースト・学校問題

3. 新しい構造の導入

 

                               からなります。

 

 

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補足説明22個

 

1. 人権尊重の円の拡大

教員がどんな意味・合理性をつけても、

背の順で並べられる限り、苦痛を感じる学生がいるのが事実です。

多くの教員は、教員から見た意味づけ・合理性は、正しい、普遍的と思っています。

 

しかし、よく考えてください。

教員の都合で、独善的に決めただけですよね。

教員から見た意味・合理性でしかないですよね。

学生の意見を取り入れてもいませんよね。

憲法・法律・人権と矛盾しないように、校則・習慣を考えているわけではありませんよね。

 

一応、教員間での審議により決めているとは思います。

しかし、審議していても、教員は、同質性の高い集団です。

教員は、かつて学生時代に学校が居心地良かった人が多いです。

つまり、審議したとしても、

学校の校則・習慣は、学校が居心地の良かった人たちの考えしか含まれていません。

背の順で苦痛を感じた人は、殆ど教員にいませんから、背の順に疑問を感じないわけです。

このように、狭い価値観を絶対として校則・習慣を決めています。

学校が楽しかった人たちが集まって話し合っても、

問題は学校側にあるという考えにならないと思います。

だから、多くの問題は、学生側の問題とされます。

 

教員は、自身が学生時代に受けた教育を学生にします。

それを正しいと思っています。それを肯定しています。

しかし、そのかつて受けた教育は、その教員にとって良かっただけです。

教員になる人は、集団の中でいい位置にいれたので、苦痛を感じずに済んだだけです。

運が良かっただけです。

 

結局、

教育・校則・習慣は、教員から見た「かつての自分にとってどうだったか。」

「今、教員である自分にとって都合がいいかどうか。」ということを、

基準に独善的に決められています。

 

そこに学生の人権・気持ちを考える余地はありません。

そのように決められた校則・習慣は、誰かを人権侵害します。

 

常に、教員が考えられる範囲外の領域が存在していると知ってください。

そして、考えてもわからない範囲を知るために、

学生から意見を聞く必要があると知ってください。

そして、人権が尊重される領域を広げてください。

一人でも多くの学生の人権が尊重されるようにしてください。

 

図的に説明すれば、

現状の学校は、大きさの固定された円だと想像してください。

この円の中に入れる学生のみが、人権を尊重されます。

これまで、何世代の時を経ても、その円は固定されたままです。

それは、この円を拡大しなくてもいいと考える人たちが教員になってきたからです。

私は、この円を拡大してもらえるように、外部からお願いしています。

この円の狭さは、既存の校則・習慣・構造などが原因です。

円の大きさが、学生の数・多様性・個性に対して、妥当なものになる必要があります。

現状では、学生が、この円の外で苦しんでいます。

 

可能な限り多くの学生の人権が尊重されることで、学校で起きる問題が減ります。

そしてそれは教員にとっても望ましいことではないでしょうか。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

2.  罰則に意味・効果は、ない。

学校において、校則の境界を越えたら、従わなかったら、罰則というのが横行しています。

これは、本当に意味のあることでしょうか。

この記事で説明しているように、

多くの学生は学校で起きる、何かしらのことでで苦痛を感じています。

規則・習慣が学生の人権を侵害をしていたりします。

 

苦痛により、生活が乱れ、遅刻・欠席・取り乱すetcが起きます。

これに対して、罰則を科すことは、意味がないです。

(いじめ・非行・ケンカ等の他者を攻撃したことに関しては、罰則が科されるのは妥当です。

他者を傷つけたのですから、それ相応の罰則はあっていいです。)

罰則を科すことにより、苦痛の原因である学校の規則・習慣は、無くなりません。

つまり、問題の根本である苦痛は、解決しません。

 

罰則がどれだけ科されても、学生は規則・習慣で苦痛を感じ続けます。

そして、規則・習慣による人権侵害だけでも苦痛なのに、

罰則の上乗せでさらに苦痛になります。

教員を恨むようになり、さらに従わなくなります。

校則の境界を超えた学生に対して、罰則をしても、一時的に表面上従うだけです。

少し時間が経ったら、また校則の境界を越え、従わなくなります。

教員は、学生が校則を破ったり、従わなくなる根本の原因に気づくべきです。

その原因が、学校の規則・習慣による人権侵害だと気づいてください。

 

罰則は、効果として、学生を幸せにしません。

学生を傷つけるだけです。

教員を憎むようになるだけです。

余計に、理由を言わなくなるだけです。

心を閉ざすだけです。

信頼関係がなくなるだけです。

敵対関係になるだけです。

 

罰則の実質的な効果を見てください。

学生をさらに追い詰めているだけでしょう。

 

「一時的に従うから効果がある」という方がいそうです。

それは、教員に従いさえすればいいという考えがあるからではないでしょうか。

罰則が、学生の心に深い傷をつくることを知ってください。

学生の気持ちを考えてください。

罰則により二重に学生を苦しめないでください。

従ったとしても、一時的であり、また何度でも問題は起きます。

そもそも、校則の境界を越える、従わないのは、何か苦痛を感じているからです。

苦痛の原因を取り除かないと解決しません。

 

また、学生が、従わない・従えないのは、

これまで規則・習慣を一方的に押し付けられ苦痛を感じた経験から、

経験的・意識的に「教員が勝手に決めたこと・言うこと」が、

自分を幸せにしないと知っているからです。

だから、教員の決めたこと・言うことに常に不信感があります。

そして、それがこれまでと同じように自分を攻撃するように思うから、

従わないことにより自己防衛しているのです。

 

 

結局、何故、安易に罰則が行われるのかというと、以下3つの理由では無いでしょうか。

 

1.  罰則は、学生が校則の境界を越えた、従わなかったことに対して、

    教員の権威に泥を塗られたとして、教員が腹を立て、

 その怒りの解消方法として行われているのでは無いでしょうか。 

 

 教員は、校則の境界を越えた、従わなかったことに対して、腹を立てます。

 これは、教員と校則を同じものとしているからではないでしょうか。

 校則を破られたら、教員を侮辱されたと思っているのかもしれませんが、

 そんなことはありません。

 何らかの苦痛が原因で、校則を破ってしまったり、従いたく無いだけです。

 教員に対する侮辱と思うから、無駄に腹を立て感情的な罰則に出るのでは無いでしょうか。

 

または、

2. 校則の境界線を越えた、従わなかったことに対して、

 マニュアルとして罰則を行うように決められているから、

 機械的に行なっているのでは無いでしょうか。

  

 まず、機械的に罰則を行うのは、間違いです。

 学生の行いには必ず理由があるからです。

 それを聞かずにただ淡々と罰則をするのは、学生との間に大きな壁を作ることになります。

 次に、マニュアルは、只の思考停止です。

 マニュアルに任せれば、学生の言動の理由を考えたり・聞いたりせずに楽だから、

 罰則を機械的に行うのでは無いでしょうか。

 また、罰則の結果、状況が悪化しても、学生が傷ついても、

 「マニュアル通りに罰則をしたから教員は正しい」として、

 正当化するためにマニュアルがあるのでは無いでしょうか。

 マニュアルに責任を被せるためにマニュアルがあるのでは無いでしょうか。

 マニュアルは、只のガイドラインです。

 そのマニュアルが正しい保証はありません。

 そのマニュアルが、状況を良くする保証はありません。

 マニュアルは、教員が勝手に作っただけでしょう。

 それを正しいとする前提がおかしいです。

 

または、

3.  罰則は、他の学生に対する「みせしめ」ではないでしょうか。

 これは、すべきではありません。

 公衆の面前で相手を侮辱する行為です。

 それは、間違いなく憎しみになります。

 

 

――――――――――-

何故、理由があると考えないのでしょうか。

「理由を聞いたが答えなかったので、ただのわがままだ。」というのは、間違いです。

教員が理由を聞けば、簡単に答えると思うのは間違いです。

学生はいろんな問題を抱えています。

信頼できる人・親にさえもいいたくないことがあります。

それを教員に言うはずがありません。

聞いたが答えなかった場合、何か理由があるのだろうと思ってください。

そして、他者を傷つけてない限り、罰はなしにすべきです。

罰則に効果・意味はありません。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

3.  規則・習慣は見直す。

規則・習慣は、見直す前提にしてください。

規則・習慣は、時と人に合わせて変えるべきです。

規則と習慣に無理に学生を押し込まないでください。

 

1.規則・習慣は、学生が幸せに生活するためにあります。

 だから、誰かが苦痛を感じる規則・習慣はなくすべきです。

 毎年入学する学生は違います。

 毎年、根本(人種・国籍・身体・家庭環境etc)・感性・考えetcの違いがあります。

 また、時代の変化によって、

   学生全体の根本(人種・国籍・身体・家庭環境etc)・感性・考えetcが変化します。

 これらの違い・変化に対応した規則・習慣にすべきです。

 

 

2. 規則・習慣の見直しができるようにする。

  具体的には、  各学校に生徒が気軽に提案・主張のできる環境   を作る

  学生に、口頭で尋ねても言いません。

  教員との信頼関係がないからです。

  また、意見・主張をできないような教育を幼少期から受けているからです。

  だから、提案・主張のできるホームページ・メールアドレスを作る必要があります。

  これに関しては、

       既に、II.「背の順に関する補足説明11個」- 5. 類似問題の解決方法-

       I. 各学校に生徒が気軽に提案・主張のできる環境を作る       で説明しました。

  こうすることで、どの規則・習慣が学生の苦痛になっているか気づけます。

 

3. 教員の感覚で決まりを作ることは、危険。

   一部の学生に対する人権侵害が起きる。

   そして、外部から改善を求める意見が出る。

   教員や教育界の人がその意見を読むが、

   自分たちから見たものだけしか見えなくなっている。

   だから、改善がなされない。

   教員としても、改善の意見を送られてらそれについて行動するのは面倒でしょう。

   だったら、教育現場において、その場で、改善をしたらいいのです。

   しかし、学生が意見を言える環境が無いので、後で外部から意見が送られる訳です。

   現場がまともに機能してない証拠です。現場で意見を主張できることが重要です。

 

―――――――――――――――――――――

4. みんな違うを基準にする

学校では、意見を言えば、文句とみなされ、

「みんなやってる、みんな同じ」と言われます。

しかし、みんながやっているからと言うことが、苦痛をなくす効果を持ってはいません。

また、みんな同じであると言うならば、

みんなも私と同じ苦痛を感じていなければおかしいわけです。

背の順のとき、立つ位置にしても、みんな同じ位置に立ちますか。

物理的に無理です。

つまり、「みんなやってるし、みんな同じ」と言うのは、事実ではありません。

本来あり得ないことを、無理強いしていると言えます。

シンプルに物事を見てください、どう考えてもみんな違うでしょう。

 

また、みんな同じという言葉は、学生の心にみんな同じじゃないといけないという思いをつくります。学生は、成績、運動能力、容姿、言動など、に共通点、平均を見いだします。

そして、この共通、平均から外れた人を攻撃しようとします。

どれだけ同じにしようとしても同じにならないことがあります。身体、容姿、能力など、絶対に同じにはなれません。つまり、イジメに発展します。

 

「一人の例外も認めず、同じことを同じように行うこと」は、異常です。

しかし、教員は、これを教育と思い込んでいます。

これを、「基準」としています。

しかし、よく考えてください。

すごく、不自然なことを基準にしていませんか。

この記事の各所で、「人には根本的な違いがある」と説明しています。

この違いを考慮すれば、「みんな同じという基準」を満たすのは、難しいです。

これを満たすことは、現実的に不可能です。

また、一部の学生が必ず犠牲になります。

 

それよりも、「何を、どのようにするかは、みんな違う」ということを

「基準」にする方が、自然だと思いませんか。

このようにすれば、満たすことは可能です。

また、すべての学生が尊重されます。

 

「同じことを、同じようにする」というこれまでの基準が狂っているとわかりませんか。

異常なところに「基準」を置いているとわかりませんか。

少しでも違うことをする学生がいたら問題視しますが、

よく考えてください、自分にとって良いことを、自分で選んでいるだけでしょう。

至って普通のことです。自分にとって何が良いかは、自分が一番よくわかります。

みんなと同じことが良いとは限らないです。

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5. 人は根本的に違うことを理解できていない

   教員の方々には、人は違うということを理解できていない方が多いように思います。

 かつて、自分が体験したことが、

 学生みんなに当てはまると思っているのではないでしょうか。

 学校が楽しかった人が教員をやっている傾向があると思います。

 楽しかった人は、クラスみんなが楽しんでいると勝手に思い込んでいます。

 しかし、楽しんでいるのは、ごく一部だと思います。

 

 まず、人は生まれながらに根本的になことが違います。

 根本的なこととは、身体・人種・国籍・家庭・文化etcのことです。

 もっと、自他の違いを強く認識してください。

 

 日本人は、外見上、同質性が高いですよね。

 ゆえに、中身まで同じとして自分の法則を他人にも当てはめているように思います。

 教員にそのような方が多いように思います。

 しかし、諸外国のように多民族で、構成されている場合を想像してください。 

 外見、宗教、文化etc何から何まで自分と違うということが前提ですよね。

 それが、目に見える形でわかりますよね。

 ゆえに、日本の文化を押し付けようとは思いもしませんよね。

 押し付ければ、マナーがなっていないとわかりますよね。

 諸外国と同様に、日本人にも、根本的な違いがあります。

 それが見える形としてわかりにくいだけです。

 

 人は、根本的なことが違います。

 だから、物事についての定義が違います。

 ゆえに、その定義から生まれた考え方が違います。

 

 他人の定義・考えは、自分には当てはまりません。

 使おうとしても使えません。

 他人のものだからです。

 教員は「背の順は意味・合理性がある」という考えを用いて押し付けてきました。

 しかし、教員と私は根本的に違います。

 私の考えは、「背の順は苦痛だ」です。

 このようにして、自分と他人の区別を認識してください。

 教員は、自他の区別がつけられていない人が多いです。

 自分に当てはまることは、他人にも当てはまると思い込んでいます。

 

 社会では、自他の区別をつけて尊重するのがマナーでしょう。

 学校でも、同様であるべきです。

 

 学校のあらゆる決まりは、教員が独善的に決めています。

 自分たちの考えを他者に押し付けています。

 よく考えてください。

 その考えを押し付けられるのは、学生ですよね。

 それなのに、学生抜きで何でもかんでも決めているのは異常です。

 そして、学生が、苦痛だと言ったら、わがままだ我慢しろと言います。

 足りないのは、学生の忍耐力でしょうか。

 いいえ、足りないのは、教員の自他の区別だと思います。

 自他の区別をつければ、違いを受け入れ尊重することが重要だとわかります。

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6. 個性尊重・多様性尊重

 (前方に背の低い学生、後方に背の高い学生という順に並べたとします。)

 ①:先頭・前方 (背の順を苦痛に感じる学生のいる位置)

 ②:中央・中盤

 ③:最後尾・後方                      とする。

 

   背の順は、主に「前方の視認性の配慮」という意味で行われています。

 ここで問題なのが、教員が、「前方の視認性の配慮」という意味を絶対視していることです。

 

 つまり、教員たちは、「前方の視認性の配慮」の意味があれば、

 人を身長を基準にでべても良いと言っています。

 

 これは、「人の身体的な違いを基本とする人権意識」がないように思います。

 人の身体的な違いの順に並べるなんていうのは、論外な行いです。

 誰が一番小さくて・一番大きいかを際立たせるなんていうのは、論外です。

 背の順は、論外な行いです。

 つまり、個性尊重というものをわかっていないように思います。

 

 個性尊重とは、身体・精神・能力・立場 etcの色んな”違い”を受け入れることです。

 それらの”違い”を、目立たせることではありません。

 

 ましてや、

   背の順のように  身長で、場所を強制することではありません。

 身長を、目立たせることではありません。

   身長の差で並べることではありません。

   つまり、

 背の順を使う限り、個性の中でも根本的な”身体”を、尊重できていないことになります。

 

 

私は、個性とは、「人が持つ根本的な違い、感性の違い」だと考えます。

(これは、私の勝手な分類です。)

根本的な違いとして、身体・人種・国籍・家庭環境・能力・文化 etc  です。

感性の違いとして、言動・考え・選択・価値観・興味 etc   です。

そして、「根本的な違い、感性の違い」を受け入れるのが、個性尊重・多様性尊重です。

目立たせることではないです。晒すことではないです。

その違いで並べたり、比較することではないです。

 

 

尊重とは、その違いを、受け入れることです。

矯正し、変えることではありません。

個性尊重・多様性尊重のためには、根本的な違いはもちろん、

言動・興味・考え方などあらゆる違いを大切に受け入れる必要があります。

 

何故、個性・多様性を尊重しないといけないかと言うと、それらが才能だからです。

また、それらを尊重しないと、学生たちの心身に悪影響が出ます。

鬱・精神疾患などの症状が出ます。

自分の根本・感性を受け入れてもらっていると実感がないと学生の成長に良くないです。

個性の中でも特に、身体的なことについて侵害されると、人は精神疾患になります。

 

 

個性尊重無くしては、もはや教育では無いです。虐待です。

正直、日本の学校で行われていることの多くは、虐待です。

 

 

また、他人と比較しないのが、個性尊重・多様性尊重です。

ですから、能力的・身体的なことで、競争・並べる・順位づけるなんてのは、やめるべきです。

そのようなことは、一方に、高慢さ、他方に、屈辱感・憎しみを植え付けます。

そして、それらから、ケンカ・イジメ・非行などにつながります。

 

教員から見たものを押し付けるべきではありません。

私の場合、背の順は、教員から見た意味・合理性で行なっているのはわかっていました。

しかし、私としては、どう考えても同じようには思えません。

みんなで同じことをするというのは、決していいことではありません。

みんなでやることを絶対とする風潮により、自分が苦痛だと思うことを強要されます。

苦痛は、いろんな形で生活に支障をきたします。

 

――――――――――――――――

少し、いじめ問題について述べます。

個性尊重・多様性尊重はいじめ問題とも関係があります。

イジメが発生するのは、自分に自信がないからです。

自分に自信がない分を、他者をいじめることで人の上に立ち、

間違った自信を得ようとするからです。

それは、自信ではありません。

 

つまり、イジメを行う側に自己肯定感がないのです。

本の学校は、教育・指導と称して暴力・暴言を行ったり、

個性を否定したり、能力・身体を比較させたりします。

これでは、自己肯定感が育ちません。

イジメが起こるはずです。

 

イジメを無くすには、学生の個性を受け入れ、褒めることです。

もっと学生たちを褒めるべきです。

 

また、個性を否定したり、他者との比較・並ばせる・競争させるのは、やめてください。

 

―――――――――――――――――

 

現状では、個性尊重の重要性を、実感している教員は少ないように思います。

何故ならば、その重要性がわかるのは、自身の個性が危険に晒されたときだからです。

教員の多くは、学校が楽しかったという方々です。

個性尊重の重要性を実感するほどの苦痛にあっていないと思われます。

 

このように教育委員会に提案すると、

「個性尊重するように現場の教員に通達すればいい」と考えるのかもしれません。

それは、大切なことなので嬉しいです。

しかし、「個性尊重するように現場の教員に通達する」という手段は、十分ではないです。

なぜなら、それでは、教員の裁量任せだからです。

また、問題が起こった時に、教員としては尊重しているつもりだったと言えます。

教員の程度任せでは、危険です。

結局、教員の程度まかせだと、

尊重よりも支配でクラスが運営されます。

また、起きた問題を隠蔽することになると思います。

 

では、どのようにして、個性を尊重したらいいでしょうか。

私としては、構造的に個性を尊重する必要があると考えています。

その方法を、「学校の構造的な欠陥と改善について」、で説明します。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

7. これまで、背の順は問題として出なかったぞという方々

これまでがどうかは、重要だとは思いません。

何故なら、これまでは、意見を言える場所が学校現場しかなかったからです。

また、身体に関わる、センシティブなことなので、他人には相談しません。

現場では、この問題は、表に出ません。

しかし、今は、インターネットで言えます。

だから、ネット上に私と同じ意見がいくつかあります。

つまり、これまでどうだったかは、正しさの基準ではありません。

これまでどうだったかではなく、

教育界の皆さんは、これまでどれだけの学生の心に苦痛を与えたかを知ってください。

 

―――――――――――――――――――――

8. 組織の問題か、個人の問題か。

 背の順のとき、先頭には、針があります。

 針は、苦痛を感じる子だけに、見えます。

 先頭の子は、針が刺さって痛いのです。

 先頭の子は、取り乱す・不登校・非行etcの行為に出ます。

 すると教員は、この子を異常として扱い、排除します。

 さて、問題は解決したでしょうか。

 いえ、次は前から2番目の子に針が刺さるのです。

 

 この例えでわかっていただけませんか。

 問題は、問題を抱えている子ではありません。

 学生の個人的な問題ではありません。

 問題は、組織のやり方です。

 学校が学生に苦痛を感じさせているのです。

 

 針が見え、苦痛を感じるのは、少数の人です。

 だから、理解してもらえず、個人のわがままとされてしまいます。

 しかし、その人を排除しても、また次の犠牲が生まれるだけです。

 問題の本質である、針を取り除きませんか。

 組織に存在する見えない針を取り除くことで、 

 取り乱す・不登校・非行etcが減ると思います。

 

 学校に存在する”針”を放置して、

 学業etcを頑張れと言われても、全く無理です。

 苦痛で学業が手につきません。

 

 学生が、学業etcを学ぶためには、

 学校を構造的に快適な場所にする必要があると思います。

 学校で起きる問題の多くは、学校の構造の問題です。

 

――――――――――――――――――――――――――-

 

9. 学生が嫌がることは、単純にしないほうがいい

   教員の方には、学生が嫌がっても、強要するのが教育だと思っている方が多いです。

 しかし、よく考えてください。

 嫌なことは、誰だって拒絶します。

 そして、憎しみを持つようになります。

 学校のやり方に反感を持ち、教員を嫌うようになります。

 学生に強要することは、学校・教員、両者にとって良くないと思います。

 嫌がることには、理由があります。

 その理由を理解できるかどうかに関わらず、人が嫌がることはしない方がいいです。

 人が嫌がることはしないのは、人間関係の基本です。

 

   教員から見た意味・合理性があるからと言っても、

 苦痛を感じている学生にはなんの効果もありません。

 苦痛を感じている学生からすれば、苦痛が圧倒的です。

 

 苦痛だというのですから、事実その子には苦痛なのです。

 どれだけ意味・合理性を押し付けても、その学生は教員に反感を持つだけです。

 その学生とうまくやっていくには、教員から見た意味・合理性を説くのではなく、

 その学生を尊重するしか無いと思います。

 

 

―――――――――――――――――

10. 本当に学ぶべきは、教員

本当に学ぶべきは教員じゃないでしょうか。

人権意識を高めるべきは、教員じゃないでしょうか。

教育関係者は、背の順に違和感を持って、改善すべきだと気づいてください。

身長を意識させる並べ方である背の順は、すごく失礼なことです。

背の順で人を並べるのは、教員から見た理由があっても、絶対にすべきではないです。

人に対して、下品で卑劣な行いをしているとわかりませんか。

教員の方々は、人権意識があまりないように思います。

 

また教員の方は、背の順のように、

人を身体的なことで決めつけたりする方が多いように思います。

人を何かと、外見で見ている人が多いように思います。

一般に、人は幼少期は、人を外見で見る傾向があります。

しかし、教員は大人ですでしょう。

人を身体的に判断するのは、やめてください。

本当に、結構数、無神経極まりない行いをする教員がいます。

特に、体育教員にその傾向があると思います。

人権感覚を養ってください。

 

体育教員には、本当に信じられないくらい柄が悪い人が多いです。

暴言・暴力で問題になるのも、この種の人たちが多いと思います。

教員が学生を抑圧すれば、波及して、

学生間のイジメなどが起きやすくなるとわかりませんか。

暴力を行う学生を止めるために必要だというならば、

それは体育教員ではなく、警備員・警察でいいと思います。

そのほうが、校内暴力の抑止力としても有効だと思います。

体育教員は、教育の現場に必要ないように思います。

 

また、多くの教員は、学生が年下であり、学生という肩書きだからと言う理由で、

人として尊重しない関わり方をしています。

まず、呼び捨てはダメです。

社会で大人同士で呼び捨てしますか?しませんよね。

何度も言いますが、一市民として関わることが大切です。

さらに、教員には、学生を軽く扱ったり、蔑んだ態度を取る人もいます。

最悪の人間です。このような人も体育教員に多いです。

このようなことをするのは、実は自分に自信がないからです。

だから、相手を押しつぶすことで安心したいだけです。

人間として、浅はかです。学生をひとりの一市民として扱い、関わってください。

 

背の順のような問題を放置すれば、学生は教員を信頼してくれなくなります。

「教員たちが決めること・指示することは、自分を幸せにしない」という認識が出来上がります。

そして、言うことを聞いてくれなくなります。

また、単純に考えて、嫌な思いをさせる人の指示に従うはずがありません。

 

学生が、「この規則・習慣は、人権侵害であり、苦痛です」というならば、

すぐに改善してください。

そのような訴えにも関わらず、教員から見た意味・合理性を押し付け、苦痛を感じさせるのは、

もはや、教育とは言えないです。

それは、虐待です。

教育は、学生が安心できる状況があって初めて成り立ちます。

一部の学生は、背の順がある限り、教員を信頼できないです。

信頼されるためには、学生が苦痛だと思うことは、改善する方がいいと思います。

 

また、教員の方々は、暴力・暴言・イジメに加担するなどは、犯罪であると知ってください。

体罰ではなく、暴行・傷害です。

イジメではなく、犯罪です。

社会のルールの基本です。

遵守してください。

教員は、何か、もっともらしい理由をつけて暴力・暴言を行いたがりますが、異常ですよ。

理由があればやって良いことではないです。

しかも、その理由も、教員を絶対な正義として、理由づけしたものです。

自分に都合よく意味づけした理由です。

 

教員はもう少し、憲法・法律を学ぶなどしてください。

研修などで、憲法・法律を学んでください。

そして、人権意識を持ってください。

 

教員の方は、自覚がない・無意識なのか知りませんが、

教員が普通だと思う関わり方が、学生にとっては横柄だったりします。

その関わり方が、スタンダードになっているから、わからないのかもしれませんが、

学生を見下した態度の方が多いのは、如何なものかと思います。

これも、「先生」という肩書きを捨て、一市民として関わることにより幾らか解消されます。

そのように、関わってください。

人には、認知バイアスが存在します。

教員が普通だと思っている振る舞いが、

学生の恨みを買い・信頼されなくなっていることがあります。

教員は、もう少し、自分たちの側に間違いがあることを知ってください

 

はっきり言って、学校は社会から外れた閉鎖空間です。

異常なことが起きるのはそのためです。

その異常な場所に長年所属し続けるのですから、常識的じゃなくなっていると思ってください。

 

教員の多くは、一生を学校という場所で過ごすと思います。

大学卒業後、直ぐに学校に就職した人が大半だと思います。

そのような人は、学校の中の規則・習慣で頭が縛り付けられていて、

学校的な考えから出られないように思います。

当然です、学校から学校に戻ってきたのですから。

狭い価値観の人間が教育を担うことの危険性がわかりませんか。

狭い価値観で縛り付けるだけでも、子供たちの心を精神疾患に至らせます。

さらに、狭い価値観の人間は、自分を正義として、横暴に振る舞うようになります。

それがまさに、教員による暴力、暴言などです。

この場合、学生が死んだり、自殺に追い込まれたりします。

 

幼少期から思っていましたが、

大人になり心底わかるのは、教員の多くは、アテにならない、信頼できないということです。

「先生」という言葉の本来の意味に合致するような人は、一人もいません。

 

もし、学生に反発されたり、信頼されなかったら、

それは相応のことを教員がやっている証拠です。

信頼されないこと、学生が苦痛と思うことをやっている証拠です。

昨今、教育界に対する風当たりが強くなっているかもしれません。

しかしそれは、相応のことを教育界がしている証拠です。

もう少し、自らの汚れを自浄してください。

 

私のこの記事が教育界に送られるのも、相応のことを学校がしているからです。

問題がなかったら、居心地がいい場所だったら、こんな記事送らないのですから。

 

正直、学校は、社会から見て相当迷惑な機関になっています。

非効率なこと・人権侵害なことを学生に刷り込み、考えさせない、自分で考える人間が育たない、

議論ができないなど、社会・経済面から見て、すごく迷惑なことをしている場所です。

 

教員の皆さんは、自分たちが狂った場所にいて、狂った場所を作っていると、自覚してください。

一度学校という場を出てください。いかに狂った場所かわかります。

できれば海外に出てください。

日本の教育を受けた人々が作り出している日本社会も、かなり狂っています。

日本社会に出ただけでは、視野の広さとして、十分では無いです。

 

狭いところで、何十歳も年下相手に、横暴に振舞わないで下さい。

大学を出て、直ぐに教員になった方がほとんどだと思いますが、

あまりにも社会経験が足りていないということを感じませんか。

あまりにも狭い世界に生きているとわかりませんか。

そして、狭い世界で子供達を苦しめているとわかりませんか。

あなたたちの狭い価値観で決めた物事により、多くの学生を苦しめているとわかりませんか。

 

教員の方には、子供たちを従わせることにより、自己肯定感を得ようとする方が多いです。

本来、これは、自分自身で得る、または、他人に貢献することで得るのが健康的です。

しかし、多くの教員は、子供たちを従わせて、得ようとしてませんか。

意識して無くても、そうなってます。

子供たち相手なら、楽な仕事だとか、横暴に振舞っても許されるとか思って、

教員になっているような人も多いです。

 

ここまで書いても、恐らく、自分たちが正しいと思う方が多いでしょう。

教員の認知バイアスは相当強くかかっています。

正直、私にとって、教員は最悪な人たちです。

人権意識が無く、子供たちを尊重できない人です。

自分から見た意味、合理性だけを正しいとして、狭い場所で横暴に振る舞う人たちです。

とてもじゃないけど、尊敬はできないです。

 

教員は、もう少し人の人生を担っているという意識を持ってください。

人権侵害、差別、等は人の人生を壊します。

想像できないのかもしれませんが、すごく酷いことをしているとわかってください。

学生の人数が多いから、個人を尊重することはできないのが現状かもしれませんが、

それならば、現状の学校システムを批判して、改善しようとしてください。

それもできないならば、既存の学校教育を存続させないために、

教員になるべきではないです。既存の学校システムを継続させるべきではないです。

 

本当に学ぶべきは、教員ではないでしょうか。

教員に、社会経験・視野の広さ・人権意識などが足りないのではないですか。

 

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11. 整列はいらない

そもそも、整列は科目ではありません。

科目を学ぶ際に生じている、余分な副産物です。

副産物で学生が苦痛を感じているわけです。

副産物で苦痛を感じて、教員との信頼関係がなくなり、

肝心の科目が学べないのは、おかしいです。

ぱ最近、副産物により学生が苦しむという事例が多いと思います。

整列を必要だと思うのは、教員の固定観念だと思います。

 

「社会に出た時、整列できないと困る」などの意見がありそうです。

しかし、学生は日常生活で一市民として列に並ぶことは多々あります。

学生は、社会で順番待ちとして列に並ぶなどは当たり前だとわかっています。

学校で行わなくても、社会マナーとして学びます。

仮に、教えないと並ばない学生がいるのならば、

社会マナーとして数回教えれば十分です。

頻繁に整列を強要する必要はありません。

 

「整列しないと無秩序だ」という方がいそうです。

しかし、好きな形で集まることは、無秩序ではありません。

「好きな形=無秩序、無秩序=悪い」とするから問題になるのです。

例えば、円形に集まれば問題でしょうか。

扇型に集まれば問題でしょうか。

問題ないと思います。

 

「好きな形で集まれば、話を聞かなくなる」などの意見がありそうです。

しかし、話を聞くことは、マナーとして教えればいいです。

整列という手段によって行われる必要はありません。

整列を教えないと、修学旅行などの時に周りに迷惑をかけるという意見がありそうです。

修学旅行の時は整列すればいいと思います。

私が言っているのは、整列を乱用しないでくださいと言っているんです。

 

話を聞く、順番を守る、道をふさがない、外部で迷惑をかけないなどは、

社会マナーとして教えればいいです。

整列という副産物によって行われる必要はありません。

 

過剰な整列は、教員の支配欲の表れだと思います。

教員の自己満足だと思います。

または、外部から見た体裁だと思います。

何かと並ばせたがる文化を無くしていただきたいです。

学校教育には、副産物が多すぎます。

 

そもそも、整列はいらないです。

さらに、背の順はもっといらないです。

仮に、整列が必要だとしても、

背の順は人権侵害です。

 

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12. 体育教育の改善。

 体育教育は、学生の精神を抑圧している場合が多いです。

 まず、体育は、軍事教練の名残だと思います。

 整列から始まり、並び方まで事細かく命令、

 号令とマスゲームのような行進、科学的技術・方法の説明無しの授業です。

 

 さらに、中高の場合、体育教員はやたらに威圧的・攻撃的です。

 その威圧を見て受けていれば、意見や提案を聞くことができない人だとわかります。

 体育教員が対話と尊重のできる人であったならば、私の背の順問題は解決したと思います。

 

 また、体育では、背の順が多用されます。

 体育教員は、体格の大きな人が多いです。

   背の順のとき、先頭、前方ではなかった人にでしょう。

 これでは、背の順を苦痛に思う学生に、共感できないわけです。 

 

 現状の体育は科学に基づいた技術・方法を学べる授業ではありません。

 ひたすら威圧により服従を強要される科目です。

 学校は、学術の場です。

 

 威圧されては、萎縮し学業にも支障が出ます。

 教員による威圧は、学生間に波及しイジメにつながります。

 

 スポーツを学びたいという学生は、外部のクラブetcに参加すればいいです。

 外部の方が科学的な面からアプローチした教え方をしてくれます。

 

 改善として、

 まずは、軍隊的な慣習・行進・命令・威圧etcを無くし、

 科学的アプローチによる上達を中心にした授業に変えてください。

 

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13. 学校教育と蜘蛛の巣

 学校において学生の言動が問題とされることが多々あります。

 これは本当に問題でしょうか。

 細かい瑣末なことにまで指摘することが、問題だと思います。 

 また、問題を生み出しているのは、

 瑣末なことを指摘する「先生」という存在ではないでしょうか。

 

「学生らしさ」などというのは、教員の勝手な押し付けです。 

 学生を縛り付け、苦痛・劣等感・屈辱感・憎しみを植え付けています。

 

 問題は、細かい瑣末なルールを作ればたくさん起こります。

 つまり、ルールは蜘蛛の巣のようにもなります。

 張り巡らせれば、多くの問題が起こります。

 今、学校のルール・習慣・構造は、蜘蛛の巣のように学生の足を引っ掛けにきています。

 ルール・習慣・構造は、増やせばいいというものではありません。

 ルール・習慣・構造の負の面も見る必要があります。

 

 これからは、増えすぎた無駄なものをどうやって減らして快適にするかが重要です。

 学校も同様で、規則・習慣・構造etcいらないものが多すぎます。

 それによって学生が苦しんでいます。

 減らすことにより快適な状態を作る必要があります。

 

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14.  副産物はいらない。

学校には副産物が多すぎます。

その副産物は、無くてもいい規則・習慣です。

背の順であったり、整列・行進・号令・体育祭・組体操・文化祭etc色々あります。

全ていらないです。

副産物は、誰かを苦しめる恐れがあります。

 

学校は、座学・科目を学ぶ場所であればいいです。

そこに、習慣・規則・行事など不要なものが含まれすぎです。

それらにより、苦痛を感じる学生がいます。

 

5教科7科目を学べる場所であれば十分です。

体育はいらないです。

体育は、ただ威圧されて、抑圧される科目だからです。

体育は、集団主義を押し付けて、縛り付ける文化を生み出します。

さらに、体育教員は、学生を尊重することのできない人が多すぎます。

暴力・暴言で問題になる教員の多くは、体育教員だと思います。

このような、暴力的な人間は、学びの場である学校には必要ありません。

日本、及び日本社会に人権意識が根付いていないのは、

学校教育において、人権が尊重されてないからです。

そして、特に体育においては、酷いです。

体育、体育会系は、日本社会のパワハラ等を作り出しています。

日本社会の癌だと思います。

 

何か目的があって、そのための手段があるとします。

この時、手段によって、誰かが苦しむのであれば、その手段はやめるべきです。

そして、他の手段を選ぶべきです。

他にいい手段がなければ、そもそもの目的が必要かどうか考えてください。

誰かが苦しむ手段を使ってまで、達成するほどの目的かどうか考えてください。

そこまで重要な目的ではないでしょう。

なくてもいい目的ではないでしょうか。

その目的は、誰かが苦しまないように変えられることではないでしょうか。

 

私は、誰かが苦しむならば、目的も手段も捨てていいことだと思います。

また、目的も手段も自由に変化させられることだと思います。

 

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15. 学校教育において、いらないと思うものを挙げます。

社会では無い規則、習慣をおこなうことは、

学校が異常な場所になることの始まりです。

そして、これらが、学生を苦しめます。

学校にある余分な副産物は、取り除いてください。

以下のものがなければ、教育ではないですか。学校ではないですか。

そんなことないと思います。

教育・学校の本質とは関係のないことで学生を苦しめているとわかってください。

 

  1. 背の順

 ➡︎この記事で詳しく説明していますが、

  学生間に、身長による優劣・良し悪し・序列意識・侮辱的意味づけを生み出す。

  そして、先頭・前方の学生が苦痛を感じる。また、侮辱されるきっかけになる。

  教育として、必要ではありません。やめてください。

 

2. 整列・号令・行進・集団行動

 ➡︎これらも必要ないです。全て軍隊からの名残です。

      個人を束縛して、過剰にみんな一緒を押し付ける習慣です。

      これらが、息苦しさ、閉塞感を生んでいます。

      また、背の順を正当化する理由としても用いられています。

      しかし、背の順だけでなく、そもそもこれらがいらないです。

  また、これらにより、協調性などが学べると言う方がいます。

  まず、これらにより協調性が学べるかどうか怪しいです。

  さらに、協調性を、何だと定義しているのでしょうか。

  協調性は、軍隊的なことでないと学べないのでしょうか。

  他の手段では協調性は養われないのでしょうか。

  人の違いを無視して、同じようにすることが協調性ではないです。

  私は、協調性を、人の違いを尊重した上で、協力することだと考えてます。

  その意味で、軍隊的なことは協調性ではないと思います。

   

3. 体育・体育教員

 ➡︎従わせるばかりの科目になっている。

  特に、高校の場合、集団行動・行進など全体主義を押し付ける。

  個人の運動能力の違いを無視して、晒し者にする。

  イジメなどにつながりやすい。

  体育教員は、威圧をして、学生を攻撃する人が多い。

  自分に従わせようとし、暴力・暴言なども多い。

  言語によるコミュニケーションが下手であり、一方的に命令をする。

  教育機関において、暴力・暴言ばかりで、コミュニケーションを取れない人は必要ないです。

  これらは、学生にとって苦痛になる。

  体育会系の持つ文化には、幾らか暴力性がある。

  体育教員からしたら、普通の関わり方かもしれないが、学生からすれば凄く苦痛。

  ここにも、認知バイアスがある。

  背の順の問題性についても、体育教員は、

  自分が理解できないから改善はしないとして、強行するような人が大半だと思います。

  とにかく、体育教員は、理解がなく、コミュニケーション能力が無く、

  威圧的で暴力的な方が多かったです。

  そして、学生が苦痛を感じたり、悩むのも体育に関することが多いと思います。

  つまり、体育と体育教員はすごくタチの悪いものなのです。

 

  一応、言いますが、全ての体育教員が上記に該当するとは言いません。

  しかし、傾向として、上記のようなことがあると思います。

 

4. 集団主義全体主義

 ➡︎学校は過剰にこれらを押し付けます。

     これらは、個人を束縛し、スクールカーストなどのイジメの構造を生み出します。

 

5. 全校集会

 ➡︎時間と労力の無駄です。

      校内放送で伝えればいい、各教室にモニターで放送すればいい、

      各担任が教室で読み上げるなりすればいいです。

      全校生徒がわざわざ体育館に移動して、話を聴くのはあまりに非効率です。

 

6. クラス・学級制度

 ➡︎これが、イジメの元になるスクールカーストを生み出しています。

  固定されたメンバーで、関わらないといけないことにより、

  スクールカーストが形成されやすくなります。

  そして、イジメに至ります。

 

 

7. 体育祭・文化祭などのイベント

 ➡︎このようなイベントは、参加型にすればいいです。

      やりたい人だけでやるのがいい。

      全員参加は、スクールカーストをつくります。

  そしてイジメにつながる。

  体育祭に関して、具体的には、組体操・ピラミッドなどは、やめるべき。

  事故事例もあり、危険です。

 

8. ブラック校則・習慣

 ➡︎これは、言うまでもなく人権侵害、虐待です。

      教員から見た意味、合理性で、正当化しないでください。

      黒染め強要、背の順など、たくさんあります。

 

9. 指導・教育と称しての、暴力・暴言・恫喝

 ➡︎これは、絶対に無くしてください。

      指導、教育と称して正当化しようとしますが、ただの、暴力、暴言、恫喝です。

      ただの犯罪です。

       傷害罪、暴行罪に該当します。

       教育現場で、これらは、不要です。

 

10. 先生・教育・指導という概念

 ➡︎まず、すでに他の項目で挙げましたが、先生という概念は、権力の暴走を引き起こします。

       学生に対して横暴になります。学生の意見が聞けなくなります。

      学生を尊重できなくなります。

      次に、教育、指導という概念です。

      これらは、教員がする横暴な行いを正当化する道具になっています。

      本当の教育は、尊重が無いといけません。

      そもそも、教育、指導という言葉が、一方的です。

      学生の意見をきかずに、一方的にこれが、教育だ、指導だと言って、押しつぶすやり方です。

 

 

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16.集団教育は、不幸なシステム。

 

集団教育は、非常に不幸なシステムです。

その不幸を、学生個人のものとしないでください。

問題は、学校が構造的に生み出しています。

私の場合は、背の順が原因でした。

教員の方は、既存の教育システムを批判的に見ていただきたいです。

 

既存の集団教育に疑問を持たないのは、

教員が学校を自分にとって楽しかった場所としてしか見ていないからでしょう。

教員という立場ならば、今、目の前にいる学生にとってどうだろうと考えてください。

教員の感覚を中心にクラス運営をしないでください。

教員が差別・人権侵害を作り出しています。

 

教員は学校が居心地良かった方が、多いと思います。

しかし、苦痛を感じている学生が結構数います。

苦痛を感じている学生にとっても、居心地のいい場所にするには、

既存の教育体制をやめる必要があると気づいてください。

既存の教育構造は、相当昔に確立されて、長いこと変化していません。

国際的に見て相当な遅れをとっています。

教員が、教育というものをどう考えているかは、わかりませんが、

学生が幸せに安心して過ごせる場所を学校とするならば、

既存の教育体制を批判し、教員が主導で改革していただきたいです。

そうでないならば、あまり教育というものを深く考えていないのかと思います。

学校が、自殺者が出るような場所・安心できない危険な場所であってはいけないと、

気づいてください。

 

そもそも、教育というものに携わるのならば、

既存体制を否定的にみて、改善を主導していただきたいです。

本当に教育というものを志していたら、集団教育は、崩壊させるべきだと考えると思います。

しかし、そのように見ないあたり、教員・教育界の人々は、

学校などを職場としてしか見ていないのかと思います。

学生が学ぶ場所というよりは、教員の職場になっていると思います。

 

正直、既存の教育体制は、崩壊したほうがいいです。

犠牲者の立場になってみてください。酷いものですよ。

 

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17.  既存の教育は「学生を悪」とすることから始まっている

既存の教育は、「学生を悪」とすることから始まっています。

どういうことか説明します。

教育界には、「教員が学生に、事細かに指示を出し、強要しないと悪くなる」という、

前提があるように思います。

この前提により、「悪くなるのを正すのは、教員は正義だ」となります。

つまり、「教員は正義だ」となっています。

無意識でそのように思ってはいませんか。

多くの教員は、学生の言動に対して、学生に問題があるとして、威圧的に関わります。

しかし、学生からすれば、理由があります。

ところが、言いたく無いことなのです。

または、うまく言い表せないことなのです。

 

教員が理由を聞いたからといって答えるわけがないです。

何故ならば、その理由は非常にセンシティブなことだからです。

家庭のこと・身体のこと・友人関係・過去のイジメ被害など、

教員に相談したくないのです。

学校は、問題を抱えていても、その問題の原因を教員に説明しないと、解消されないです。

また、相談しても、解消されなかったりします。

 

しかし本当に、放っておけば、指示を出さなければ、強要しなければ、悪くなるでしょうか。

悪くならないと思います。

そもそも何故、「学生を悪い」としているかといえば、問題を起こすからでしょう。

しかし、問題を起こす理由を考えてください。

なんらかのことで苦しんでいるからではないでしょうか。

例えば、学校による人権侵害・家庭環境・人間関係etc、いろいろあります。

 

「苦しんでいる→ 問題を起こす→ 悪いとみなす」が一連の流れです。

ところが、教員は、「問題を起こす→ 悪いとみなす」の部分だけを見ています。

何らかで、苦しんでいると分かる必要があります。

そして、その理由が、学校・教員であることが多々あります。

 

学生が、学校の何らかで苦しんでいるということを想像できないのは、

教員は、学校が楽しかった人たちだからです。

学校の何らかで、苦痛を感じることがあるという感覚がないのだと思います。

学校肯定派の人間だからです。

 

また、学生を悪いとした方が、考えなくていいから楽なのだと思います。

なぜ学生が、そのような言動に至るのか、考えなくていいからです。

 

また、学生を無知で、怠けた人間だとして捉える傾向があります。

そのほうが、教員を正義としてられるからだと思います。

 

本の学校の教員は、あまりにも先入観が強いように思います。

自分たちが学生を苦しめているということを想像する余地がないように思います。

教育現場に学生の気持ちを考える余裕がないと思います。

教員を正義として押し付けるだけだから、何も改善されずに、

学生の苦痛は、イジメ・非行などに向かいます。

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18. わがまま、ではない

 背の順による苦痛を一部の学生は、強いられているわけですから、

 学校生活の上で、言動として苛立ちの感情が表に出ます。

 つまり、逸脱行動をとってもおかしくはないです。

 すると、従え・わがままだと罵られ指導が行われます。

 果たしてその指導は妥当でしょうか。

 人の嫌がることを強行しておいて、拒絶されたら、従えと言うことは、

 横暴だと思います。

「わがままだ」と言う人は、集団の中で嫌な思いをしていない人たちです。 

 自分の感性を普遍的として、楽をしている人だと思います。

 「わがままだ」は、多数派・支配者の行う言葉の暴力です。

 何かと理由をつけて、他者を従わせたい人たちです。

 だから、平気でわがままだと言います。

 しかし、本来は、わがままではなく、苦痛を感じていたら誰でも拒絶します。

   わがままだ、という言葉を使って権力者の意見を全員に押し付けるのは、全体主義です。

   全体主義は、全体主義、全員が幸せになる方針ではありません。

   全体主義は、権力者の個人主義です。

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19.”何でもかんでも、教員が独断で決める”。これが不幸の始まり。

 よく考えてください。

 他人の身体について指摘すること。

 それを基準に並べるということ。

 これらは、人権侵害でしょう。

 デリカシーに欠けるでしょう。

 世の中には、言わなくてもいいのに、他人の身体的なことを指摘する人がいます。

   背の順はまさに、その人と同じです。

 背の順のたびに、「あなたは、一番背の低い人ですよ」と言われているわけです。

 先頭・前方の学生は、そのように感じるわけです。

 

 背の順のような人権侵害が起こる理由は、

 組織が、そこに属する人を”所有物”のように扱っているからではないでしょうか。

 学生は、人格のある人間です。

 つまり、

 教員が、何でもかんでも、方法や考え方を決めるべきではありません。

 並び方の基準まで事細かに決めるべきではありません。

 ましてや、身体的なことである「身長」を基準にするなんて、人権侵害です。

 

 教員の多くは、学生時代楽しく過ごせた人だと思います。

 だから、学校で行われる習慣に疑問がありません。

 背の順で苦痛を感じる学生の気持ちをわかりません。

 そして、 教員は、背の順を強行しているわけです。

 苦痛に感じることを、強制してくるのです。

 すると、苦痛を感じる学生からすれば、教員は敵になってします。

 

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20. 教員は、業が深い

教員という職業は、業が深いです。

教員の方々は気づいていないのかもしれませんが、

教員という職業が、幼少期の子供達に与える影響はすごく大きいです。

 

現在、教育現場では、教育・指導と称して暴行・傷害・脅迫・恐喝が行われています。

また、イジメを放置したり、加担したり、教員主導でイジメをしたりする事件が起きています。

そして、学生が自死するということにつながっています。

自死に至ってなくとも、相当の、精神的・身体的虐待を受けています。

これらの問題は、教員が自分を正義として、自己正当化した先に起きると思います。

 

「教員の方が正しい・賢い・偉い、

だから、学生は従うべきだ」という理屈で横暴なことが行われます。

 

これは、ただのマウンティングです。

自分にあって他人にないものを取り上げて、他者より優位に立とうとする人がいます。

例えば、賢さ・偉さ・年齢・肩書き・年収・学歴・身体・容姿・能力などです。

しかし、よく考えてください。

都合よく、正しさ・賢さ・偉さなどを、相手に無くて自分にあるとして、

攻撃しているだけでしょう。

自分に都合のいい評価軸を作り出しているだけでしょう。

取り上げたものは、自分にあるとは限りません、また他者に無いとは限りません。

学生には、教員よりも正しさ、賢さ、偉さがないと勝手に決めつけて、

それを理由に攻撃しているだけです。

教員の方が正しいなどの事実はないです。

教員が勝手に自分の都合のいい評価軸を作り、自分を優れているとしているだけです。

さらに、仮に、事実、優れているとしても、横暴に振舞っていい理由にはならないでしょう。

 

 

差別・迫害・人権侵害は、何か理由をつけて、何か特徴の違いを取り上げて、

相手に、自分と同じような権利・尊厳を認めなくていいとして、攻撃することでおきます。

実際、歴史上、黒人差別などは、黒人は白人よりも知能などの面で劣るから、

白人が黒人を導かなくてはいけないとして、同等に扱いませんでした。

つまり、知能で劣るからという根拠のない理由をつけて、

黒人の権利・尊厳を認めなかったわけです。

教員も学生に対して、同じようにしていませんか。

 

 

学生が何か規則、習慣等に従わなかった場合、

それを破ったからという理由で罰則、指導と称して攻撃している教員が多いです。

学生が規則等に従わなかった場合、それを学生を攻撃する理由にして、

マウンティングを取っていませんか。

学生を一方的に悪いと決めつけていませんか。

 

理由を聞くことを、大切にしてください。

仮に、理由を言わなかったとしても、わがままと決めつけてはいけません。

言いたくないだけで、理由が必ずあります。

 

上記の場合に、攻撃的になる教員は、自分の内にある苛立ちを、罰則、指導と称して、

都合よく理由をつけて学生に向けているだけです。

学生が規則、習慣を破ろうが、冷静な教員な人は、冷静に対応します。

どんなときも冷静に対応してください。

暴力、暴言は、愛の鞭などではなく、ただの横暴さを正当化しようとしているだけです。

 

 

教員の方は、自覚がない・無意識なのか知りませんが、

教員が普通だと思う関わり方が、学生にとっては横柄だったりします。

その関わり方が、スタンダードになっているから、わからないのかもしれませんが、

学生を見下した態度の方が多いのは、如何なものかと思います。

これも、「先生」という肩書きを捨て、一市民として関わることにより幾らか解消されます。

そのように、関わってください。

 

 

人には、認知バイアスが存在します。

「私は、先生だから、必要なら学生を殴ってもいい。暴言を吐いてもいい。

それらは、教育・指導だ」と思っているのかもしれませんが、そのような権利はないです。

また、暴力・暴言を、教育・指導と称し、正当化して、行なっているのかもしれませんが、

正当化してるだけです。

「先生」という肩書きに暴力・暴言を行う権利はないです。

「先生」という肩書きは、正しさ・権力の象徴ではありません。

 

しかし、学生に一方的に物事を強要する前提の教育をしていると、

何にしても、無意識に強要するようになるのでしょうか、

そのような方が教員には多いと思います。

そして、さらに過激になり、暴力・暴言をしてもいいという風になるのかもしれません。

暴力で事件になった教員が、「殴ることで部が強くなると思った」等の発言をしますが、

本心で言っているのなら、認知バイアスが相当強くかかっています。

また、「正しく指導したつもりだっった」等の言葉も同様です。

 

教員個人に関わらず、学校・教育界全体が認知バイアスが強くかかっています。

教員の暴力・暴言などで学生が自殺した場合、

「指導死・行き過ぎた指導・体罰死」などの教育用語で正当化・緩和しようとしています。

これが、意図的なのかどうなのかは、疑問です。

恐らく、意図的に、教育用語に変えて、正当化していると思います。

しかし、これらは、明らかに、殺人事件です。刑事事件です。

本来は、司法に裁かれることだとわかりませんか。

教員には、憲法・法律を知り、遵守している人が少ないです。

ほとんどの教員が、憲法・法律を意識せずに学生と関わっているように思います。

 

 

教員の多くは、学校が楽しかった方だと思います。

すなわち、学校において、うまくいった人たちです。

だからこそ、悩み苦しんでいる学生に対し、理解を示さず、

その学生が悪いとして、攻撃的になり、追い詰めている場合があります。

「成功体験ほど、ひとの目を曇らせるものはない」と思います。

学校が楽しかったという認知が、バイアスとして働き、

学生を追い詰めていることに気づいてください。

また、「先生」という肩書きが、「偉い・正しい」というバイアスを、

作り出していることに気づいてください。

学校が楽しかったという教員ほど、自信を持っているため、

自分に従わない学生に攻撃的になったりします。

 

 

学校で起きる事件に対して、多くの教員は他人事なのかもしれませんが、

現状の学校の体制・構造上どこの学校のどこのクラスでも起こる危険性があります。

事件は、その学校の事件の当事者だから起きたわけではありません。

どの学校でも常に危険です。

イジメ・教員による虐待などが起きています。

学校は、とてもじゃないですが落ち着いて安心できる場所ではありません。

人によっては、地獄です。

教員の方が、どこまで実感を持ってこの危険性を認識しているのか疑問です。

 

教員の方は、学校が楽しかった方でしょうから、

学校が地獄である学生に気づくのは難しいです。

また、どこにリスクが存在するのかわからないでしょう。

学校肯定派というのは、学校内にある危険を察知する能力がないと思います。

気づいた時には、事件になっています。

もっと、学校を、問題がある場所として否定的に見てください。

既存体制は、崩壊した方がいいです。

 

学校において、教員による暴力・学生間のイジメなどにより、

学生が自殺をしている現状をよく考えてください。

異常なことでしょう。

学びに来ているのであって、傷つき、死にに来ているのではないのですよ。

 

教員の多くは、大学卒業後、学校という狭いとじられた世界に長い間居続ける人だと思います。

単純に考えてください。

視野が狭くなっているとわかりませんか。

教員は、5年ごとに学校と民間を行き来するシステムに変えた方がいいです。

また、海外留学、海外での仕事経験のある人の方がいいです。

 

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21.ラベリングによる正当化

学校で、学生が問題提起したら、

教員から見た、意味・合理性を言って、自己正当化する教員が多いと思います。

「我慢だ・わがままだ・社会に出たらそういうことはあるから仕方ない」など正当化する発言をいう教員は多いです。

しかし、それで学生の苦痛は無くならないです。

 

まず、「我慢」はいいことではありません。

「我慢」では、問題は、解決されないからです。

苦痛を心の中に溜め込んで、いずれ何らかの形で爆発するだけです。

それがイジメ・非行・不登校など色んな形として出ています。

 

次に、「わがまま」ではありません。

苦痛を感じれば誰だって、拒絶をします。

自然なことです。

「わがまま」というラベリングは、苦痛を感じていない人が、

意見を押しつぶすために使う手口です。

 

次に、背の順の場合「社会に出たらそういうことがあるから仕方ない」というのは、嘘です。

社会では、背の順のように人を身体的基準で並ばせるという卑劣で下品な行いはしません。

平然と嘘を言わないでください。

 

また、「社会に出たら、人権侵害な習慣・規則などがあり、それで嫌な思いをすることがある」という意味で言っているのならば、確かに社会にはあります。

しかし、社会のそのようなものは変えるべきものです。

社会に人権侵害な習慣・規則があるから、

仕方ないという理由で学校でも仕方ないとするのは、教育とは思えません。

社会でもあるからと言う言葉は、学校の理不尽を肯定する理由にはなりません。

むしろ、そのような習慣・規則を変えれるように教育をすべきではないでしょうか。

そもそも、社会も間違っていますし、学校も間違っています。

どちらも改善すべき点が多くあります。

その前提で、習慣・規則を改善することを、

教育した方が社会的・将来的に有益だと思います。

 

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22. 先生という概念は使わない方がいいです。

学校において、「先生」という概念は使わない方がいいです。

この概念が、学生・教員双方を縛っています。

「先生」は、尊敬されなければいけないという古い考えがあるからです。

尊敬されたい・尊敬されなければいけない

また、尊敬されなければいけないという考え方は、

教員にとってもプレッシャーになるでしょう。

「先生」なんて呼び名は、尊敬できるから使っているのではないですよ。

先生と呼ぶことを強要され、先生と呼ばないとあなたたちが機嫌が悪くなるでしょう。

だから、学生は、教員の要求に合わせてくれているだけですよ。

先生という継承にふさわしい人なんて学校に一人もいません。

 

学校という箱があり、そこに入った途端に、

10代の若者は「学生」、何十歳も年上の大人は「先生」となる。

これが、多くの問題を生み出しています。

「先生」という名称は使わずに、サポーター・スタッフに改名していただきたいです。

 

社会において、10代の若者に対して、年下だからと言って、

大人が命令・考えの押し付けをしますか。

どう考えても、しませんよね。

また、犯罪にすらなりますよね。

訴えられます。

 

しかし、学校という「閉じられた箱」に入れば、違うのです。

これが異常です。

学校という箱に入った途端「学校・教育・先生・学生」というラベリングがされます。

大人は、「先生」のラベルが貼られ、若者は、「学生」のラベルが貼られます。

先生は、学生を低く見始めます。

そして、「教育」という名の下に、人権侵害さえ起きています。

 

では、何故そのようなことが起こるのでしょうか。

それは、「学校・教育・先生・学生」という概念が原因のひとつです。

「学校」には、「教育の場所」という意味が含まれています。

「教育」には、「正しいものが、未熟なものを導く」という意味が含まれています。

「先生」には、「尊敬されるべき正しい人」という意味が含まれています。

「学生」には、「先生より下の位にあり、未熟、従うべき人」という意味が含まれています。

 

(上記の意味は、「教育」のような概念に対する態度として、

教員・学生の双方がとる態度、または、実際にとっている態度を文章化したものです。

文章化された公式の定義ではありません。                       )

 

このような概念がある学校という箱に入った途端暴走し始めます。

あらゆることが、「学校・教育・先生・学生」という概念によって正当化されます。

こうして、暴力・暴言・おかしなことが正当化されます。

 

「閉じられた箱」とその中での「概念」によって、人が暴走し始めます。

これは、有名な実験でご存知かと思います。

それは、「ジンバルド実験」「スタンフォード監獄実験」です。

学校で起きている問題も、この実験と同じです。

つまり、学校=刑務所、教育=更生させる、

先生=看守、学生=囚人      の構図ができてしまっています。

 

「教員」は、「学生」を見下すような扱いしかできなくなっています。

上から目線ということは、同じ視点に立てないという欠点があるということです。

一市民として、関わることができないということです。

 

 

教員としてではなく、一市民として学生に関わるようにしてください。

一市民として関わらないことが、暴力・暴言・虐待などの根本原因です。

学生に対して、一市民として関わらないから、

学生が苦痛を感じる暴力・暴言などが起きるのだと思います。

そして、酷い場合、学生を殺害したり、自殺させたりすることに至ります。

教員を学生より上だから、何をしてもいいとなり、人権侵害が起きます。

教員が上なのだから、従わせるだとか、従うべきだとかは思わないほうがいいです。

特に、問題を抱えている学生には、一市民として関わってください。

問題を抱えている学生は、教員の「威圧的なところ・命令」などが、苦痛なのです。

 

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23. 教員に注意していただきたいこと

教員が、苦痛を感じる学生に共感できないのは当然です。

それは主に、下記のつの理由が原因です。

 

1. かつて、教員にとって学校が、どうであったかを基準にしない。

 教員になっている人の多くは、かつて学校が居心地の良かった人だと思います。

 当時の自分と同じように、学生が学校を居心地よく思っていると思わないでください。

 それは、あなたが運が良かっただけです。

 

 学校が居心地良かった人は、学校の規則・習慣に疑問を持たないです。

 ですから「学校の何が苦痛なのかわからない・苦痛だという意見はわがまま」などとして、

 扱ってしまうのかもしれません。

 教員が学校・規則・習慣・教員を肯定的に見ることが、

 問題を抱えている学生を追い詰めるのです。

 教員の、かつて楽しかったという記憶が、問題を抱えている学生を理解できない原因です。

 成功体験ほど、人の目を曇らせるものはないです。

 教員ならば、かつて自分にとってどうであったかではなく、

 目の前の学生にとってどうであるかを見てください。

 

 

2. 今、教員である自分にとって学校が、どうであるかを基準にしない。

 今、教員である自分にとって学校がどうであるかを基準にすれば、

 教員から見た意味・合理性が全てになってしまいます。

 そして、意味・合理性を学生に押し付けることになります。

 

 

3. 教員から見た、意味づけ・合理性があるものほど、危険。

 教員から見て良いものほど、その裏で学生の人権を侵害していないか考えてください。

 学生を苦しめていないか考えてください。

 

 

4. 一市民として関わることを知ってください。

  教員が上で、学生が下とすることが、相互理解から遠のく原因です。

  多くの教員は、学生を「知識・人格・能力などの点で未熟」とし、

  教員を「知識・人格・能力などの点で成熟している」と考えているように思います。

  そして、「学生は、教員に従うべき・教員が導く」という考えは、多くの間違いを生みます。  

 

  このような権力関係があると、学生の言葉の少しも受け入れられなくなります。

  学生のいう言葉に関わらず、教員の方が上・偉いから正しいという押し付けになります。

  教員と学生に、上下関係は、ない方がいいです。

  言動から直して、一市民として関わってください。

  暴力・暴言・侮辱などは、論外です。

  信頼関係が破綻します。

 

  一市民として関わったら、教育が崩壊するという方がいそうですが、

  それは上下関係で押しつぶすことを教育と定義している方の理想が崩壊するだけです。

  そのような理想が相当歪んだものだと気づいてください。

  

  そもそも、既存の教育体制が、学生に押し付ける方法をとっています。

  文科省に決められたことを行う上で、取らざるを得ないのかとも思います。

  しかし、その中でも、可能な限り一市民として関わってください。

  特に、問題を抱えている学生に対しては、一市民として関わることが重要です。

  さらに、そもそも、既存の教育体制を変える必要があると気づいてください。

  既存の集団教育は、不幸なシステムだと知ってください。

 

  教育は、学生と教員が一市民として関わり、成り立つ教育で十分。

  一市民として関わる上で成り立つ教育で十分です。

  

  学生を下としたいがために、学生が持っていないことばかり見てはいませんか。

  学生が起こした問題の表面を見て、学生を全てにおいて、未熟としていませんか。

  問題の表面を見て、このような問題が起きるのは、

  学生が知識・人格・能力などの点で未熟だからだ、として思考停止していませんか。 

  そして、教員は正しいとし、指導・教育と称して、

  侮辱・暴力・暴言などを行なっていませんか。

  

  学生の起こした問題を深く知れば、

  問題を起こすところまで学生を追い込んだ、

  学校・教員・学生・規則・習慣などの存在が見えてきます。

  しかし、気づきたくない・考えたくない・考えられないので、

  学生が未熟だからだとしているのだと思います。

 

 

5. 学校は完成された場所ではない。

 教員たちが、前提として、「学校を完成された場所」としてしまうから、

 学校の規則・習慣が絶対に正しいとなり、そこに適応しない学生が悪いとなっています。

 そして、問題を抱えている学生が、苦痛を感じています。

 学校は、たくさんの欠陥がある場所だと認識してください。

 そして、それを改善する必要を感じてください。

 また、教員の多くは、既存の教育体制で居心地がいい状況に運良くいられた人です。

 そのような人たちが決める規則・習慣は、視野が狭く・人権侵害が起きます。

 教員は、自分たちの感覚だけで規則などを作らない方がいいと、気づいてください。

 

 

6. マジョリティに属し続けることは危険。

 仕事として教員を選ぶわけですから、

 教員の方は、幼少期から、学校においてマジョリティに属していたと思われます。

 そして、職業として、教員を選び、マジョリティに属しているわけです。

 長い間、マジョリティに属し続けると、他の考え方を受け入れられなくなります。

 また、マジョリティに属していれば、考えなくなるので、思考停止します。

 マジョリティは、考えなくても、その場の風潮に従っていれば、何とかなるからです。

 さらに、物事は人によって見え方が違うということを知る機会がなくなります。

 故に、教員の方には、自分の考えを絶対としている方が多いように思えます。

   

   長い間マジョリティにいるが故に、教員の感覚が学生全員に当てはまると思ってしまいます。

   当てはまらない学生が、悪いと思ってしまいます。

   しかし、教員にとって、学校がいい場所であっただけです。

   それを、全ての学生に当てはめるのは、間違いです。

   これを理解していない教員の方が多いように思います。

 教員のように、マジョリティに属し続けている人は、

 デリカシー・思慮に欠けるところがあると思います。

 悪意がなくても、思慮に欠けます。

   

 

 

7. 「教員は正しい、教員に従うのが教育だ」とするのは、やめる。

 端的に言いますと、教員が絶対に正しいということは、ないです。

 教員は自分を正しいとしたいのかもしれませんが、正しくないです。

 普通に間違っていたり、視野が狭かったりします。

 

 教員を正しいとすると、学生の言葉を受け入れられなくなります。

 頭から否定するようになります。

 全て、都合よく「学生のわがまま・自分勝手」ラベリングしてしまうことになります。

 

 教員を正しいとして、一方的に押しつぶすことでしか、

 学校が成り立たないのならば、既存の学校は相当野蛮な場所だということです。

 そして、その野蛮さは、従わせるということを教育としてしまっているから、

 生じるのではないでしょうか。

 既存の学校体制から見直した方がいいです。

 教育とは何かを考えてください。

 

 従わせることを教育としていると、その領域に包含されない学生に対して暴力的になります。

 例外的な学生は、必ず存在します。

 従わせることを教育としていなければ、

 そのような学生に対して、攻撃的になることはないでしょう。

 

 従わせるということを教育としている時点で、教育と言えるかどうか考えてください。

 従わせるという教育観から脱するべきだと思いませんか。

 違いを尊重する教育に切り替える必要性を感じませんか。

 全ての学生にとって、違いを尊重する教育はいいと思います。 

 

 従わせることを教育とするのが、もう時代遅れで、ナンセンスだと思いませんか。

 やめるべきだと思いませんか。

 

 

8. 暴力・暴言・侮辱などは、信頼を壊す。

 もう、言うまでもないですが、信頼関係が壊れます。

 そして、理解し合うどころではなくなります。

 指導・教育と称してすることは、やめてください。

 これは虐待です。

 日本の教員は、人権意識がない方が多いです。

 欧米・先進国から見れば、日本の学校で行われる指導・教育の多くは虐待です。

 

 

9. 教員として関わらない方がいい。

 残念ながら、学生が、教員という肩書きの人に対する、

 嫌悪感を持っている場合も少なくないです。

 これは、幼少期から、教員の横暴・理不尽を幾度となく受けてきたからです。

 嫌悪感を持って当然です。

 ですから、教員が何もしていなくとも、

 学生が教員を避けたり、嫌っているようでしたら、察してください。

 そのような学生に、教員として関わるとうまくいかなくなります。

 そのような学生は、教員という立場から生じる言動に嫌悪を抱いています。

 例えば、上から目線・暴言・暴力・管理するような態度etcを嫌悪しています。

 関わり始めの教員に罪はないですが、

 教員という立場からそのような言動が生じている場合が多いです。

 この場合、一市民として関わるのがいいです。

 しかし、他の学生に示しがつかない等の、体裁的な理由から、

 一市民として関われないのでしょうか。

 ここでもやはり、「教員が上で、学生が下」という構図を取り払う必要に迫られます。

 

 「従わせる」ことを教育とするのが、

 どれだけ問題を複雑化しているかわかっていただけませんか。

 「従わせる」を前提にしていると、問題が解決できなくなります。

 教員としてしか関われないと、問題が解決できなくなります。

 教員という視点を捨てる必要があると思います。

 何度も言いますが、教員ではなく、一市民になる必要があります。

 

 

10. プライドの張り合いは、いらない

 教員は、学生の意見を退けたがります。

 その意見が妥当であるかどうかに関わらず、学生のわがままとして退けたがります。

 しかし、その意見は、教員・学生が快適に過ごすために大切なことです。 

 教員の方には、学生の意見を受け入れて、改善したら、

 負けのように思っている方がいると思います。

 一体、何の勝負をしているんですか。

 学校は、プライドの張り合いをする場所ではないです。

 そして、受け入れて、改善したら、学生に負けるとか、舐められるとか、そんなことはないです。

 学生は、苦痛だし、変えて欲しいから、意見を言っているんです。

 プライドの張り合いをする教員は、器が小さい人だとか、信頼できない人だとされ、

 逆効果になると思います。

 

 

11.  ローカルルール優先が異常な場所をつくる

       規則は、市民社会憲法、法律のみで良い。

       ローカルルール優先になると、治外法権になってしまう。

  実際なっている。

 

12. 過去に受けた苦痛で今苦しんでいる学生もいる

  例えば、ある学生が、高校において、取り乱したり、

  非行に向かったり、不登校精神疾患になったりということがあるとします。

  この時、いろんな事情がこの学生にはありますが、

  その原因が、何年も前のこと、

  例えば、小学生・中学生の時に受けたイジメ・教員からの暴力・暴言etc、

  ということもあります。

  教員から見たら、その学生は、今、高校に在学している状況で、

  何も問題は起きてようには思えないかもしれません。

  そして、その通り、高校の現時点においては、問題は起きていないかもしれません。

  しかし、何年も前に受けた苦痛が、今になって、人の心を苦しめるということはあります。

 

13.  学生は、一人の人間として尊重されることにより、自立する。

  人は、ある年齢になるから自立するのではなく、

  権利・尊厳を持った人間として扱われるから、自立するのです。

  今の教員の接し方は、学生を自立に導きません。

  学生の権利・尊厳を踏みにじり、一人の人間として対等に扱っていないわけですから、

  それに対して、学生は、自立しないという選択をします。

  つまり、暴力・暴言などを行うことを選択します。

  現状の教育は、学生の自立を妨げています。

 

 

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24.いかにして、学生の苦痛・不快をなくすかが重要

  教育界は、学生の学力向上に力を入れていると思います。

  そのための手段として、各科目の教員に、科目をわかりやすく説明することを、

  求めているのではないでしょうか。

  また、授業時間を増加させたり、補修などを行ったり、

  規定の点数に満たない場合は、

  罰則として再試験を何度も繰り返すということをしていませんか。

  これらの手段は、全て間違っています。

  学生に圧力をかけて学習を強要する方向に力を入れるのは、間違いです。

  学生が安心して、ストレスなく、落ち着いて、

  学習に迎える環境作りに、力を入れるべきです。

  学生がストレスを感じ、辛いと思う環境にいれば、

  教員がどれだけわかりやすく説明しても、意味ないです。

  また、時間を増やしたり、圧力をかけても意味ないです。

  そこが、わかっていない教員の方が多いです。

 

  私の場合、背の順という習慣が、ストレスになりました。

  すごく苦痛でした。

  学業どころじゃなくなり、鬱・不眠症になりました。

  

  選ぶべき手段は、いかに学生のストレス・苦痛・不快を取り除くか、

  いかに、学生にとって居心地のいい・安心できる環境を作るかです。

  そのためには、人権侵害の規則・習慣は、なくすべきです。

  

  教員は、付け加えたり、増やすことばかりを手段として選んでいます。

  しかし、いかに、減らすか、無くすかの方が重要です。

  

  正直、授業は基礎的なことを導入として教えてくれたら十分です。

  あとは、居心地がよく、安心できる環境があれば、各学生のペースで、学びます。

  そして、教員がわかりやすく工夫したり、時間数を増やす必要はないです。

  そして、学生が、自分で学ぶ能力を手に入れたら、

  教員はもう教えなくて良くなると思います。

   

  質問されたら、答えればいいのであって、

  教員が最初から最後まで黒板で説明する必要はないです。

 

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25.  協調性の定義を考える

学校現場では、協調性という言葉が重要視されています。

やたらに、何でもかんでも協調と言われます。

明らかに、不愉快で苦痛なことも「協調しなさい」と言って強要されます。

しかし、協調性というのは、苦痛を我慢することではないです。

以下、 現状の協調性と目指すべき協調性について考えてください。

私は、以下のように考えます。

 

・現状の協調性  :雰囲気・空気を読む。みんなと同じことをする。

          ただひたすら同じことを強要される。同調を強要される。

 

・目指すべき協調性:根本的な違いがある人たちが、協力をすることです。

          ひとりひとりが、根本的に違うという前提で関わる。

          何かに対して、協力するとき、重要になるのは「尊重」である。

          尊重することが大前提。

 

現状の協調性は、みんなと同じことをするというものです。

これは、似た者同士でのみ成り立ちます。

根本的なことが違う人にとっては、自分に合わないことを強要されることになります。

 

根本的に違う人が協力するためには、尊重が必要になります。

そうしないと、衝突が起きます。

 

前者が、現状の協調性です。

これでは、根本的なことが違う学生は、苦痛を感じます。

そして、苦痛・屈辱感が喧嘩・非行・不登校などの形で、表に出て学校中に波及します。

 

今後、協調性は、「根本的に違うもの同士が協力すること」と定義してください。

協調性の言葉の下に、一部の学生に苦痛を強いることはやめてください。

 

また、過剰に現状の協調性を強要されることは、協力を嫌う学生を増やします。

強要され苦痛を感じた学生は、他人と関わるのを嫌うようになります。

 

 

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26. 教員の視点を優先することは、教育ではない。

背の順の問題提起に対して、

教員から見た意味・合理性をお答えとしていただくことが多々あります。

そして、その意味・合理性は、誰もが認めるべきだと思っているようです。

私は、この記事の各所で「背の順は、苦痛だからやめてほしい」と伝えています。

 

さて、苦痛を感じる学生に対して、教員から見た意味・合理性を押し付けることは、

教育でしょうか。効果があるでしょうか。

「苦痛だ」「つらい」と言っている学生に対して、強要して何の教育になるのでしょうか。

 

教育と虐待を混同していませんか。

苦痛を感じさせたら、憎まれるだけではないでしょうか。

人間関係が悪くなるだけではないでしょうか。

一度、そうなったら簡単には信頼関係は修復できません。

 

教員の視点を優先している限り、それは学生のためではないです。

教員のためです。

しかし、教員は、「学生のためにやっています。教育です。」と言っています。

結局、意味・合理性は、後付けだと思います。

先に、教員から見てどうしたいかがあって、

それに大義名分として意味・合理性を貼り付けているだけです。

 

教育を受ける当事者は、学生です。

それなのに学生の気持ちを無視するのは、教育でしょうか。

当事者不在で勝手に決めるのは教育でしょうか。

仮に、それを教育だとしても、学生達にいい効果がないでしょう。

学生にいい効果がないことを教育とするならば、もうどうしようもないなと思います。

 

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学校の構造的な欠陥と改善について

 

1.  既存の学校教育の構造的欠陥

(1対30の構造)

 もう、1人の教員が、30人程の学生をに指示する構造をやめにしたほうがいいです。

 以下、この構造を1対30の構造とします。

   要は、全体主義です。

 

 人間ひとりの人生経験なんてたかが知れています。

 一人の教員の考え・感性etcで包含できる学生の数は,多くて10人程度ではないでしょうか。

 にも関わらず、30人も見れるわけがないです。

 教員は学生を主観で評価します。

 明るいのは良い・友達が多いのは良いと言った具合にです。

 しかし、教員が持つ学生に対する評価は、必ずしも正しいとは言えません。

 学校という狭い世界での評価でしかありません。

 にも関わらず、クラスという場では絶対の評価になっています。

 

 その教員の考え・感性・評価etcに適合した学生はいいでしょう。

 しかし、適合しない学生は、苦痛を感じます。

 適合しない学生は、”合わせない”ではなく、”どう頑張っても合わせられない” のです。

 人には、身体・立場・精神etcを元とする根本的な違いがあります。

 だから、”合わせられない”のです。

 

 「そうはいっても、他の多くの子達は、合わせているだろう」という言葉がありそうです。

 その多くの子達は、ピッタリではなくとも、それなりに合わせられる範囲だっただけです。

 苦痛を感じない範囲だから、合わせてられるだけです。

 “合わせられない”学生は、根本的な違いにより、合わせられません。

 苦痛のせいで、”合わせる”ことは不可能です。

 むしろ、”逃れる”となるでしょう。

 

   人は、大体、人権侵害をされて苦痛を感じない限りは、

 無意識に社会・集団に合わせているように思います。

 学生が拒絶を示したら、何らかのことで侵害をしていると考えてください。

 

   そもそもですが、

 教員が一方的に、何を、どのようにするか決める必要はありますか。

 それを30人全員に同じようにやらせる必要はありますか。

 正直、無いと思います。

 30人で同じことを同じやり方でやっても、効率が良くなるわけでもありません。

 教員が、30人を一括管理しやすいからだとしか思いません。

 実際、管理しやすさが理由だと思います。

 1対30の構造をやめれば、学生を管理する必要はありません。

 すなわち、学生は、根本的な違いを尊重されます。

 自分に合わないことを教員に強要されることはありません。

 

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(1対30の構造と許可制度)

 1対30の構造は、許可制度を軸としています。

 この許可制度とは、

 教員が許可したもの(考え・感性・言動etc)だけが良しとされる状況のことです。

 学校は、この許可制度によって、学生の考え・感性・行動etcを検閲します。

 教員の審査を通過したことだけが良しとされます。

 

 この制度の危険性を説明します。

 まず、この許可制度を通過できるものは、教員の考えetcと近いものだけです。

 教員と同じような考えetcでない学生の考えは、潰されます。

 

 ここで疑問があります。

 教員の考えは社会において、絶対的、普遍的でしょうか。

 違いますよね。

 しかし、許可制度によって、多くの考えが潰されます。

 学生は、教員のあらゆる程度(感性・教育方針・考え・行動etc)に振り回されます。

 

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(許可制度は危険)

 上記で述べた、許可制度は、学生が苦痛・悩みを、

 自己判断で回避・対処ができない状況を作り出します。

 

その例を以下2つ挙げます。

 1. いじめられている場合。

 危険・苦痛から逃れるために、自己判断で学校を自由に休んだりすることが難しいです。

 わざわざ、教員にいじめられているということを相談し、理解・許可をもらわないと、

 回避できない状況です。

 

 2. 私の場合は、背の順が苦痛でした。

 しかし、心のうちを他人である教員に相談する気にはなれません。

 悩みを相談できるほどの信頼関係を築けていない教員の方が多いでしょう。

 仮に信頼していても、人は悩みを簡単に相談したりしないものです。

 にも関わらず、私が背の順という苦痛から逃れるためには、

 教員に相談し、理解してもらい、

 私は背の順で並ばなくていい等の許可をもらわなければいけないわけです。

 私の安全は、他人に相談して、理解してもらい、他人が認めてくれないと守られないわけです。

 これは、異常だと思います。

 

 いじめの場合も、私の場合も、

 自身を守るために、教員の許可をもらわないといけない点で異常です。

 悩み苦しんでいる学生が、相談・理解・許可を通過することは難しいでしょう。

 疲れていて、体力・精神力がなくなっています。

 

 許可制度に多くの方は、違和感を感じないかもしれません。

 それは危険から回避・対処をしないといけない状況になったことがないからです。

 しかし、実際は、学生は自身の安全を教員に委ねているわけです。

 

 

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また、許可制度は、実は、禁止制度です。

何故なら、以下2つが壁になるからです。

 

(許可制度の壁)

 ・主に3段階の手続き(相談・理解・許可)を通過しなければならない。

 ・3段階の過程は、教員のあらゆる程度(感性・教育方針・考え・行動etc)任せで決まる。

 

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(「相談」の壁 )

問題を抱えている学生が教員に相談する大変さを想像してください。

多くの場合は、以下、相談をしない場合が7つあります。

もちろん、以下以外の場合もあります。

 

1. 教員を嫌いな場合、相談はしない

  これは、人格的に嫌いだという領域です。

  当然、嫌いな人に自分のことを相談しないです。

 

 

2.  教員が苦痛の原因の場合、相談はしない

  何故ならば、

  苦痛を感じさせている原因と助けを求める対象が同じだからです。

  私の場合、苦痛を感じさせる原因は、背の順を強要する教員でした。

  そして、助け・改善を求める対象も教員でした。

  苦痛を感じさせている原因に助けを求めないといけないのは、すごく屈辱です。

  加害者に助けを求めないといけない状況だからです。

  つまり、敵に媚びないといけない状況だからです。

 

 

3.  教員が理解のない人の場合、相談はしない

  普段の言動から、相談して理解されるかどうか大体わかります。

  相談しても理解されないだろうということで諦めます。

  相談して、理解されなかったり否定された時に、

  余計に傷つくことを想像し、言わないのです。

  相談すれば、余計に状況が悪くなるかもしれないという思いもあります。

      個人的なことを、公にされる場合もあります。

  何度も述べていますが、教員の多くは、学校が楽しかった人たちです。

  学校を肯定的に捉えていることが、言動から見てわかります。

  表情や雰囲気から感じ取れます。

  問題を抱えている学生は、それを察知し、教員に話しても伝わらないと考えてしまいます。

  そもそも、問題を抱えている学生にとって、教員というのは相談相手として最悪の人物です。

  学校に対する考えがあまりにもかけ離れていると、言葉が伝わりにくいです。

  学校に疑念を抱いて、改善すべきだと思っている人物が、相談相手としてふさわしいです。

 

 

4.   教員が罰則etcを行う人の場合、相談はしない。

  問題を抱えている学生の多くは、

  取り乱す・遅刻・欠席・不登校・非行・ケンカetcとして苦痛を表に出します。

  これに対して、教員は、罰則等を行う場合が多々あります。

  学校で何らかの苦痛を受けているのに、そこに罰則を行うのは、明らかに間違いです。

  表に出た反発行為にのみ目を向け、学生の”わがまま”とラベリングするのは、間違いです。

  このとき、罰則は、意味をなしません。

  そもそも、罰則というのは、意味をなさないと思います。

  反発行動の根本にある苦痛を取り除くことが重要です。

  罰則は、憎しみを生み、さらに問題が深まります。

  何よりも、罰則を行うような教員には、相談はしなくなります。

  罰則は、意味をなさないだけでなく、信頼関係もなくなります。

 

 

5. 他人に言いたくない場合、相談はしない

  問題はあるけども、それを言いたくない場合があります。

  個人的なことである程、他者に言いたくはありません。

    コンプレックス・LGBTQ ・家庭のこと etc 色々あります。

  そもそも個人的なことを、教員に相談しないといけない状態に疑問があります。

  本来は、自己判断で、回避・対処できればいいのです。

 

 

6.  言語でうまく説明できない場合、相談はしない

  学生は、10代です。言語による説明能力に長けている人は珍しいと思います。

  ましてや、学校で主張する機会のない教育を受けているのですから、

  自分の心情を説明するのは難しいかと思います。

  また、問題を抱えてる学生は苦痛で冷静に思考できません。

 

 

7. 心身ともに疲れ果てている場合、相談はしない

 問題により心身ともに疲れてしまっている場合は、何もできません。

 いわゆる、うつ病etcの状態です。

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(「理解」の壁 )

以下、理解の壁が4つあります。

もちろん、以下以外の場合もあります。

 

  1. 教員が、学校肯定派の場合

  学生の説明が理解されない壁になることの大体は、この場合です。

      教員の多くは、学校が楽しかった人ですから、

  問題提起をされても全く共感できないのだろうと思います。

  学校肯定派と否定派の壁は厚いです。 

  苦痛を抱えて、相談した学生がの言葉を理解できる教員は少ないと思います。

  学校は楽しいものだという教員の主観が邪魔して、理解できないと思います。

 

2.  教員にとって、相談してきた学生が気に入らない場合

  教員が、自分が気に入らない学生を邪険に扱うことは多々あります。

  このような場合、学生の相談を頭から否定して扱うでしょう。

 

3.  教員が、学生のどんな意見も「学生がわがままを言っているだけだ」として扱う場合

 この場合も非常に多いです。

 学生が、どれだけ論理的に説明し、それに妥当性があっても、

 全ての言葉を「学生のわがまま」としてしまっている教員が多いです。

 ゆえに、理解されません。

 

4. 教員が言語によるコミュニケーションを得意としない場合

 そもそも、対話を得意としない人が教員になっていることが、異常だと思います。

 人の話を理解し、その人の立場を尊重することのできない人が多いです。

 このような方は、体育教員に多いと思います。

 

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(「許可」の壁)

多くの場合は、以下、許可の壁が2つあります。

もちろん、以下以外の場合もあります。

 

 1. 一人の例外も認めない方針のせいで許可が出ない場合

 学校は、みんなに同じことを同じようにやらせます。

 相談・理解を通ったとしても、例外を認めない方針のせいで、

 許可が得られない場合があります。

 

2.  教員の立場・体裁ゆえに許可が出ない場合

 教員の立場・体裁を優先して、許可が出せない場合があります。

 許可を出してしまったら、教員の評価が下がるetcの理由で学生に我慢を強います。

 

 

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以上のように、多重に壁があるため、

多くの学生は、第一段階の「相談」をしないです。

そして、許可を得るのを諦めてしまいます。

この意味で、許可制度は、意見や提案を諦めさせる制度だとさえ思います。

 

 つまり、1対30の構造が持つ許可制度を軸にしている限り、

 許可制度の壁が存在します。

 

 第一段階の「相談」をしなければ、始まらない。

「相談」をしたとしても、次は「理解」・「許可」が阻みます。

 さらに、「相談・理解・許可」は、教員のあらゆる程度任せ。

 つまり、

 個性・感性、心身の安全は、教員のあらゆる程度任せなわけです。

 教員が、全知全能ならば、成り立ちますが、実際は違います。

 学生の個性・感性・安全etcが守られるかどうかは、

 教員の当たり外れで決まる賭けのようなものです。

 

 許可制度は、1対30の構造を用いてる限り、なくなりません。

 1対30の構造の持つ許可制度の日常的な例が、

 「先生、お手洗い行っていいですか。」という言葉です。

 本来、これは個人的なことです。

 各自で決めて行動することです。

 にも関わらず、許可を取らなければ、いけません。

 こんな細部まで、教員のあらゆる程度任せなのです。

 

 お手洗いの許可ならまだいいですが、

 許可制度は、際限なく心身を支配します。

 遂には、心身に危険が及んでいる時にさえ、許可をもらわなくてはいけません。

 許可制度によって、学生が自己判断で、回避・対処することを難しくしています。

 

本来は、

教員の許可なく、自己判断で回避・対処できるのがいいです。

そのためには、教員が学生を事細かに管理する立場から降りなくてはいけません。

教員ではなくサポーターの立場になっていただきます。

つまり、教員は、要りません。

教員がいることで、危険から回避・対処できなくなっている学生は多々います。

教員は、助けを求める対象ではなくなっています。

教員は、立ちふさがる敵になっています。

 

学生が自己判断で、危険から回避できるように、

教員は、「そもそも、学校は、強制ではない。」と頻繁に言うべきです。

「つらくなったら、許可なく自由に休んでいいよ。」と言うべきです。

「許可を取らずに、自己判断で回避・対処するように」というべきです。

学校を出入り自由なドライブスルーのようにしないといけません。

 

「そんな自由な場所にしたら誰も来なくなる」という方がいそうです。

誰も行きたがらないような場所なのが間違いなのであって、

行きたがらない子供達は正常です。

そこに無理に行かせるから、いろんな問題が起きるのです。

 

本当は、教員がそのようなことを言わなくても自己判断できるのがいいのですが、

許可制度により心身まで支配されているので、このように言う他ありません。

 

 

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(許可制度と同調圧力)

1対30の構造の持つ許可制度は、同調圧力を生み出します。

教員が好む、感性・考え・言動のみが許可されるからです。

同調圧力は、教育現場での問題の発見を遅らせます。

また、教員・学生双方が、いろんな考え・立場があることを知る機会をなくします。

これにより、教員は、自身の考えが絶対だと思うようになります。

また、学生は、みんなと同じにしないといけないと思うようになります。

「人は根本的に違う」のが前提なのに、「人は同じだ」という嘘を

 

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(許可制度と多様性)

1対30の構造の持つ許可制度は、多様性と相反するものです。

どれだけ「多様性」と言っても、構造に阻まれます。

やはり、1対30の構造に問題があると思います。

 

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(1対30の構造の図形的説明)

 1対30の構造を“図形的に”説明します。

 一人の教員という一つの軸があります。

 この軸から近ければ近いほど恩恵を受けます。

 だから、30人ほどの学生は中心に集まります。

 すると軸の周りに、円ができます。

 軸から遠い位置、すなわち円周の位置には針があります。

 刺さると痛いわけです。

 この針は、私の場合ならば、背の順による苦痛です。

 他の人の場合ならば、その針は、イジメ・体罰etcかもしれません。

 学校で行われている習慣による苦痛かもしれません。

 それぞれの針により苦痛を感じます。

 

 円周の位置にいる学生は、苦痛なので、円から抜け出します。

 それは、非行・不登校であったりします。

 これにより、問題は解決したでしょうか。

 否、解決していません。

 円から抜け出した学生は、不本意な形で苦痛から逃れただけです。

 

 数人抜け出したことで、少し小さい円になりました。

 次は、この少し小さい円の円周に位置する学生が犠牲になります。

 

 この図形を角度を変えてみてください。

 実は、この円は、円錐です。

 なぜかというと、軸に近いほど、権力や立場が強いとされるからです。

 ピラミッド型な訳です。

 このピラミッドをスクールカーストと呼びます。

 これは、イジメ・非行・不登校etcの問題につながります。

 

 つまり、現在の公教育は”構造的に”犠牲者を幾らか出します。

 犠牲者というのは、非行・不登校・イジメ被害者・何らかの苦痛を抱えている学生etcです。

 

 学校における問題の多くは、

 1人の教員が、30人程の学生に指示を出す構造にあります。(1対30の構造)

 この構造を使う限り、問題は何度でも起こります。

 そろそろ、1対30の構造の欠陥を認めて、この構造を捨てる時だと思います。

 

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2. スクールカースト・学校問題

 学生間において、ピラミッドヒエラルキーが出来上がる危険性を説明しています。

 これが、イジメにつながります。

 この構造が発生する原因は、クラス制度・1対30の構造です。

 また、教員が中心となって、クラスを取り仕切るから、この構造が発生します。

 教員がこの構造・イジメに加担しているのです。

 教員の多くは、クラスの中心人物がクラスを雰囲気により、

 運営することを期待しているでしょう。

 しかし、これは、やめるべきです。

 これがイジメなどを生みます。

 

私が説明するよりも、わかりやすくまとめられている記事がたくさんあります。

以下は、スクールカースト・イジメを構造的に説明しています。

ご覧ください。

 

スクールカーストに関する参考記事をいくつか載せておきます。

https://dot.asahi.com/dot/2018040300069.html?page=1

http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/50604/1/015_020_w1402.pdfhttps:// archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BS/0040/BS00400L043.pdf 

 

学校問題に関する参考記事をいくつか載せておきます。

非常にわかりやすく学校のいじめなどの問題の解決方法を、構造的に解説してくださっています。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50919

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52631

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56128 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55879 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55712 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53333 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53330 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52633

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52598

https://socialaction.mainichi.jp/cards/1/19 

 

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3. 新しい構造の導入

この項目は、書いている途中です。

飛ばしてください。

 

 これまで説明した、 1対30の構造(許可制度)について、まとめます。

 以下が、 1対30の構造(許可制度)の特徴です。

 

 1.  1対30の構造(許可制度)は、

      教員のあらゆる程度(感性・教育方針・考え・行動etc)任せです。

      この構造の秩序は、教員によって大きく変動する危険なものです。

 

   2. 1対30の構造(許可制度)は、個性尊重・多様性を阻みます。

 

   3. 1対30の構造(許可制度)は、 危険な状況から自己判断で回避・対処できなくなります。

 

 

現状の学校は、発言と行動が分離したような状況です。

発言を「個性尊重・多様性尊重」とし、行動を「1対30の構造・全体主義」としています。

つまり、言っていることと、やっていることが一致していないわけです。

どう頑張っても、現状の構造では「個性・多様性尊重」は、限界があります。

  

新しい構造は、

構造によって、秩序・個性尊重・多様性尊重すべきです。

以下に、新しい構造を2つ挙げます。

 

以下は、文科省主導で改革しないとできない領域だと思います。

だからといって、書く意味はないとは思いません。

いろんな構造を提案して損はないと思います。

 

 

 

自習室・図書館型

塾予備校型

少人数制

授業

なし

または、映像授業

映像は、塾のものを使えばいい、各自がPCで受ければ良い

あり

ライブ授業、または、映像授業

映像は、塾のものを使えばいい、各自がPCで受ければ良い

あり

ただし、自由に意見を言える環境にする

 

一クラスの人数

 30人程度

30人程度

10人程度

規則

憲法・法律を遵守

刑事事件が起きた場合、警備員に止めてもらう

そして、警察に対応してもらう。

左に同じ

左に同じ

校則・習慣

なし

校則・習慣は作らない

なぜなら、ローカルルール優先になってしまうから、黒染め強要・背の順のような人権侵害が起きる

左に同じ

左に同じ

指導・教育と称しての、暴力・暴言・恫喝

学生による暴力行為etc

刑事事件として、即、警察・司法にかける

左に同じ

左に同じ

先生・教育・指導という概念

なし

先生→スタッフ・サポーター

教育・指導と称しての暴力・暴言→傷害・暴行・恐喝・脅迫

左に同じ

左に同じ

 

 

 

 

理念

各人が、自分の軸を持って、考える

一市民として関わる

個性・多様性尊重

左に同じ

左に同じ

 

警備員

常駐 多いほうがいい

各フロア巡回

左に同じ

左に同じ

クラス

なし

なし

あり

カウンセラー

常駐 多いほうがいい

問題を抱えている学生は、カウンセラーに任せる

左に同じ

左に同じ

教員

サポーター・スタッフ

質問されたら答える役割

その他に対してはとやかく言わない

事件・問題については、司法・警察に届け出る

 

民間経験・海外留学経験者を中心に教員になってもらう

5年ごとに民間と学校を行き来するシステムにする

 

左に同じ

左に同じ

体育

なし

スポーツしたい学生は外部でクラブ等に参加すればいいい

左に同じ

左に同じ

体育教員

なし

暴力・暴言を行うのでいらない

 

教育の本質から外れた思想などを持ち込むからいらない

 

学生を抑圧するからいらない

 

そもそも、柄の悪い人間は、学生の教育にはふさわしくない

 

社会から見ても、体育会系の文化は害悪、それを生み出す学校の体育教員は害悪

左に同じ

左に同じ

整列・号令・

行進・集団行動

なし

軍隊的なことは、やめるべき

全体主義集団主義ができてしまい危険

軍隊的な慣習と暴力は、密接に関係している

左に同じ

左に同じ

集団主義全体主義

スクールカースト

イジメ

意見を言えない状況などを、作るからやめるべき

左に同じ

左に同じ

部活

なし

やりたい学生は、外部のクラブに入る

教員にとっても、時間に余裕ができて良い

 

左に同じ

左に同じ

イベント、体育祭・

文化祭

なし

学生同士がべたべた関わり合い傷つけ合う環境ができてしまう

 

左に同じ

左に同じ

全校集会

なし

体育館に集まるのは、時間と労力の無駄です。伝えたいことがあるならば、 校内放送で伝えればいい、各教室にモニターで放送すればいい、各担任が教室で読み上げるなりすればいいです。

いくらでも簡易化できます。

左に同じ

左に同じ

係制度

なし

代議委員等の誰かをリーダーとした制度は、その学生を中心としたスクールカーストが出来上がり、イジメなどにつながる

左に同じ

左に同じ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下に、一応、詳しく説明しときます。

 

・末端・外周というものを物理的・構造的に作らないようにする。

 背の順・成績・順位など概念的に末端が存在し、

 その末端に優劣・良し悪し・侮辱的意味づけが行われないようにする。

 そのために、人を身体的なことで並べたりしない。

 成績や順位を貼りだしたりしない。

 並べたり、順位づけする文化を無くしてください。

 また、スクールカーストにより外周を作らないようにするために、

 学生に割り当てる係制度などは、無いほうがいいです。

 

・規則などを破った学生がいる場合、その学生に理由を聞き、その学生が改善するように、

 サポートしたり、学校の規則・習慣を変えれば良いです。

 全ての学生に対して、新しい決まりを強要するのは、間違いです。

 

・クラス制度は、学生同士の距離が近くなりすぎます。

 これは、イジメ・権力闘争につながります。

 人の流動性がない場所では、いじめが起きやすくなります。

 これは、想像できると思います。

 

・体育祭・文化祭・など多くの行事が、「みんなで一緒にやる」を掲げています。

 これらは、学生間のベタベタした人間関係を生み出します。

 全体主義を生み出します。

 これがイジメ・スクールカーストなどにつながります。

 あらゆる行事は無くして、授業を受けて帰るだけの場所にしてください。

   授業以外も行わないと人間関係を育めなくなるという方がいそうですが、

 日本の学校の人間関係は、人間関係としては、失敗例でしょう。

 そんなにいい人間関係を作れているでしょうか。

 無いと思います。

 社会で求められる人間関係を行えれば十分です。

 連帯責任・集団行動・行進etcいらない人間関係を押し付けないでください。

 

・背の順にしてもそうですが、学生を苦しめる多くのことは、本来必要のないことです。

 学校を、もっとシンプルに、科目を学ぶだけの場所にしてください。

 ただし、この科目に、体育は必要ないです。

 体育は、学生を過剰に威圧し、強要する科目になっています。

 また、体育教員には、学生を対話により尊重することのできない人が多いです。

 日本の体育大学・体育学部などの体育会系の文化は、

 縦社会で、権力・暴力で相手を踏みにじる文化だからです。

 そのような考え方の人が体育教員には多いです。多すぎます。

 そのような人は、教育機関には必要ありません。害悪でしかないです。 

 威圧したり、暴言・暴力を行ったりという、他者を尊重できないことは、

 すごく恥ずかしいことだとわかりませんか。

 人間として、最悪のことをしているとわかりませんか。 

 

・淡々とした学習の場にする。

 学生がベタベタコミュニケーションを取らないで済むような、

 いわゆる、一市民としての関わり方です。

 

・学校で起きるいろんな問題に対して、学生が幼稚だから起きると主張する人がいます。

 しかし、それは違います。

 学生を抑圧しているから、学生が自立した大人になれないのです。

 学生を尊重すれば、学生は、しっかりとした行動を行います。

 

・日本の教員には人権意識や思考力がないです。

 当然です、人権意識・思考力がない環境で居心地が良かった人が、

 教員になるのですから。完全に、悪循環が生まれています。

 民間経験・海外経験のある人を中心に教員なってもらほうがいいです。