ABC diary

学校教育について問題提起を行います。

学校の諸問題

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

補足説明22個

1. 人権尊重の円の拡大

2.  罰則に意味・効果は、ない。

3.  規則・習慣は見直す。

4. みんな違うを基準にする

5. 人は根本的に違うことを理解できていない

6. 個性尊重・多様性尊重

7. これまで、背の順は問題として出なかったぞという方々

8. 組織の問題か、個人の問題か。

9. 学生が嫌がることは、単純にしないほうがいい

10. 本当に学ぶべきは、教員

11. 整列はいらない

12. 体育教育の改善。

13. 学校教育と蜘蛛の巣

14.  副産物はいらない。

15. 学校教育において、いらないと思うものを挙げます。

16.集団教育は、不幸なシステム。

17.  既存の教育は「学生を悪」とすることから始まっている

18. わがまま、ではない

19.”何でもかんでも、教員が独断で決める”。これが不幸の始まり。

20. 教員は、業が深い

21.ラベリングによる正当化

22. 先生という概念は使わない方がいいです。

23. 教員に注意していただきたいこと

24.いかにして、学生の苦痛・不快をなくすかが重要

25.  協調性の定義を考える

26. 教員の視点を優先することは、教育ではない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

学校の構造的な欠陥と改善について

1.  既存の学校教育の構造的欠陥

2. スクールカースト・学校問題

3. 新しい構造の導入

 

                               からなります。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――~

補足説明22個

 

1. 人権尊重の円の拡大

教員がどんな意味・合理性をつけても、

背の順で並べられる限り、苦痛を感じる学生がいるのが事実です。

多くの教員は、教員から見た意味づけ・合理性は、正しい、普遍的と思っています。

 

しかし、よく考えてください。

教員の都合で、独善的に決めただけですよね。

教員から見た意味・合理性でしかないですよね。

学生の意見を取り入れてもいませんよね。

憲法・法律・人権と矛盾しないように、校則・習慣を考えているわけではありませんよね。

 

一応、教員間での審議により決めているとは思います。

しかし、審議していても、教員は、同質性の高い集団です。

教員は、かつて学生時代に学校が居心地良かった人が多いです。

つまり、審議したとしても、

学校の校則・習慣は、学校が居心地の良かった人たちの考えしか含まれていません。

背の順で苦痛を感じた人は、殆ど教員にいませんから、背の順に疑問を感じないわけです。

このように、狭い価値観を絶対として校則・習慣を決めています。

学校が楽しかった人たちが集まって話し合っても、

問題は学校側にあるという考えにならないと思います。

だから、多くの問題は、学生側の問題とされます。

 

教員は、自身が学生時代に受けた教育を学生にします。

それを正しいと思っています。それを肯定しています。

しかし、そのかつて受けた教育は、その教員にとって良かっただけです。

教員になる人は、集団の中でいい位置にいれたので、苦痛を感じずに済んだだけです。

運が良かっただけです。

 

結局、

教育・校則・習慣は、教員から見た「かつての自分にとってどうだったか。」

「今、教員である自分にとって都合がいいかどうか。」ということを、

基準に独善的に決められています。

 

そこに学生の人権・気持ちを考える余地はありません。

そのように決められた校則・習慣は、誰かを人権侵害します。

 

常に、教員が考えられる範囲外の領域が存在していると知ってください。

そして、考えてもわからない範囲を知るために、

学生から意見を聞く必要があると知ってください。

そして、人権が尊重される領域を広げてください。

一人でも多くの学生の人権が尊重されるようにしてください。

 

図的に説明すれば、

現状の学校は、大きさの固定された円だと想像してください。

この円の中に入れる学生のみが、人権を尊重されます。

これまで、何世代の時を経ても、その円は固定されたままです。

それは、この円を拡大しなくてもいいと考える人たちが教員になってきたからです。

私は、この円を拡大してもらえるように、外部からお願いしています。

この円の狭さは、既存の校則・習慣・構造などが原因です。

円の大きさが、学生の数・多様性・個性に対して、妥当なものになる必要があります。

現状では、学生が、この円の外で苦しんでいます。

 

可能な限り多くの学生の人権が尊重されることで、学校で起きる問題が減ります。

そしてそれは教員にとっても望ましいことではないでしょうか。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

2.  罰則に意味・効果は、ない。

学校において、校則の境界を越えたら、従わなかったら、罰則というのが横行しています。

これは、本当に意味のあることでしょうか。

この記事で説明しているように、

多くの学生は学校で起きる、何かしらのことでで苦痛を感じています。

規則・習慣が学生の人権を侵害をしていたりします。

 

苦痛により、生活が乱れ、遅刻・欠席・取り乱すetcが起きます。

これに対して、罰則を科すことは、意味がないです。

(いじめ・非行・ケンカ等の他者を攻撃したことに関しては、罰則が科されるのは妥当です。

他者を傷つけたのですから、それ相応の罰則はあっていいです。)

罰則を科すことにより、苦痛の原因である学校の規則・習慣は、無くなりません。

つまり、問題の根本である苦痛は、解決しません。

 

罰則がどれだけ科されても、学生は規則・習慣で苦痛を感じ続けます。

そして、規則・習慣による人権侵害だけでも苦痛なのに、

罰則の上乗せでさらに苦痛になります。

教員を恨むようになり、さらに従わなくなります。

校則の境界を超えた学生に対して、罰則をしても、一時的に表面上従うだけです。

少し時間が経ったら、また校則の境界を越え、従わなくなります。

教員は、学生が校則を破ったり、従わなくなる根本の原因に気づくべきです。

その原因が、学校の規則・習慣による人権侵害だと気づいてください。

 

罰則は、効果として、学生を幸せにしません。

学生を傷つけるだけです。

教員を憎むようになるだけです。

余計に、理由を言わなくなるだけです。

心を閉ざすだけです。

信頼関係がなくなるだけです。

敵対関係になるだけです。

 

罰則の実質的な効果を見てください。

学生をさらに追い詰めているだけでしょう。

 

「一時的に従うから効果がある」という方がいそうです。

それは、教員に従いさえすればいいという考えがあるからではないでしょうか。

罰則が、学生の心に深い傷をつくることを知ってください。

学生の気持ちを考えてください。

罰則により二重に学生を苦しめないでください。

従ったとしても、一時的であり、また何度でも問題は起きます。

そもそも、校則の境界を越える、従わないのは、何か苦痛を感じているからです。

苦痛の原因を取り除かないと解決しません。

 

また、学生が、従わない・従えないのは、

これまで規則・習慣を一方的に押し付けられ苦痛を感じた経験から、

経験的・意識的に「教員が勝手に決めたこと・言うこと」が、

自分を幸せにしないと知っているからです。

だから、教員の決めたこと・言うことに常に不信感があります。

そして、それがこれまでと同じように自分を攻撃するように思うから、

従わないことにより自己防衛しているのです。

 

 

結局、何故、安易に罰則が行われるのかというと、以下3つの理由では無いでしょうか。

 

1.  罰則は、学生が校則の境界を越えた、従わなかったことに対して、

    教員の権威に泥を塗られたとして、教員が腹を立て、

 その怒りの解消方法として行われているのでは無いでしょうか。 

 

 教員は、校則の境界を越えた、従わなかったことに対して、腹を立てます。

 これは、教員と校則を同じものとしているからではないでしょうか。

 校則を破られたら、教員を侮辱されたと思っているのかもしれませんが、

 そんなことはありません。

 何らかの苦痛が原因で、校則を破ってしまったり、従いたく無いだけです。

 教員に対する侮辱と思うから、無駄に腹を立て感情的な罰則に出るのでは無いでしょうか。

 

または、

2. 校則の境界線を越えた、従わなかったことに対して、

 マニュアルとして罰則を行うように決められているから、

 機械的に行なっているのでは無いでしょうか。

  

 まず、機械的に罰則を行うのは、間違いです。

 学生の行いには必ず理由があるからです。

 それを聞かずにただ淡々と罰則をするのは、学生との間に大きな壁を作ることになります。

 次に、マニュアルは、只の思考停止です。

 マニュアルに任せれば、学生の言動の理由を考えたり・聞いたりせずに楽だから、

 罰則を機械的に行うのでは無いでしょうか。

 また、罰則の結果、状況が悪化しても、学生が傷ついても、

 「マニュアル通りに罰則をしたから教員は正しい」として、

 正当化するためにマニュアルがあるのでは無いでしょうか。

 マニュアルに責任を被せるためにマニュアルがあるのでは無いでしょうか。

 マニュアルは、只のガイドラインです。

 そのマニュアルが正しい保証はありません。

 そのマニュアルが、状況を良くする保証はありません。

 マニュアルは、教員が勝手に作っただけでしょう。

 それを正しいとする前提がおかしいです。

 

または、

3.  罰則は、他の学生に対する「みせしめ」ではないでしょうか。

 これは、すべきではありません。

 公衆の面前で相手を侮辱する行為です。

 それは、間違いなく憎しみになります。

 

 

――――――――――-

何故、理由があると考えないのでしょうか。

「理由を聞いたが答えなかったので、ただのわがままだ。」というのは、間違いです。

教員が理由を聞けば、簡単に答えると思うのは間違いです。

学生はいろんな問題を抱えています。

信頼できる人・親にさえもいいたくないことがあります。

それを教員に言うはずがありません。

聞いたが答えなかった場合、何か理由があるのだろうと思ってください。

そして、他者を傷つけてない限り、罰はなしにすべきです。

罰則に効果・意味はありません。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

3.  規則・習慣は見直す。

規則・習慣は、見直す前提にしてください。

規則・習慣は、時と人に合わせて変えるべきです。

規則と習慣に無理に学生を押し込まないでください。

 

1.規則・習慣は、学生が幸せに生活するためにあります。

 だから、誰かが苦痛を感じる規則・習慣はなくすべきです。

 毎年入学する学生は違います。

 毎年、根本(人種・国籍・身体・家庭環境etc)・感性・考えetcの違いがあります。

 また、時代の変化によって、

   学生全体の根本(人種・国籍・身体・家庭環境etc)・感性・考えetcが変化します。

 これらの違い・変化に対応した規則・習慣にすべきです。

 

 

2. 規則・習慣の見直しができるようにする。

  具体的には、  各学校に生徒が気軽に提案・主張のできる環境   を作る

  学生に、口頭で尋ねても言いません。

  教員との信頼関係がないからです。

  また、意見・主張をできないような教育を幼少期から受けているからです。

  だから、提案・主張のできるホームページ・メールアドレスを作る必要があります。

  これに関しては、

       既に、II.「背の順に関する補足説明11個」- 5. 類似問題の解決方法-

       I. 各学校に生徒が気軽に提案・主張のできる環境を作る       で説明しました。

  こうすることで、どの規則・習慣が学生の苦痛になっているか気づけます。

 

3. 教員の感覚で決まりを作ることは、危険。

   一部の学生に対する人権侵害が起きる。

   そして、外部から改善を求める意見が出る。

   教員や教育界の人がその意見を読むが、

   自分たちから見たものだけしか見えなくなっている。

   だから、改善がなされない。

   教員としても、改善の意見を送られてらそれについて行動するのは面倒でしょう。

   だったら、教育現場において、その場で、改善をしたらいいのです。

   しかし、学生が意見を言える環境が無いので、後で外部から意見が送られる訳です。

   現場がまともに機能してない証拠です。現場で意見を主張できることが重要です。

 

―――――――――――――――――――――

4. みんな違うを基準にする

学校では、意見を言えば、文句とみなされ、

「みんなやってる、みんな同じ」と言われます。

しかし、みんながやっているからと言うことが、苦痛をなくす効果を持ってはいません。

また、みんな同じであると言うならば、

みんなも私と同じ苦痛を感じていなければおかしいわけです。

背の順のとき、立つ位置にしても、みんな同じ位置に立ちますか。

物理的に無理です。

つまり、「みんなやってるし、みんな同じ」と言うのは、事実ではありません。

本来あり得ないことを、無理強いしていると言えます。

シンプルに物事を見てください、どう考えてもみんな違うでしょう。

 

また、みんな同じという言葉は、学生の心にみんな同じじゃないといけないという思いをつくります。学生は、成績、運動能力、容姿、言動など、に共通点、平均を見いだします。

そして、この共通、平均から外れた人を攻撃しようとします。

どれだけ同じにしようとしても同じにならないことがあります。身体、容姿、能力など、絶対に同じにはなれません。つまり、イジメに発展します。

 

「一人の例外も認めず、同じことを同じように行うこと」は、異常です。

しかし、教員は、これを教育と思い込んでいます。

これを、「基準」としています。

しかし、よく考えてください。

すごく、不自然なことを基準にしていませんか。

この記事の各所で、「人には根本的な違いがある」と説明しています。

この違いを考慮すれば、「みんな同じという基準」を満たすのは、難しいです。

これを満たすことは、現実的に不可能です。

また、一部の学生が必ず犠牲になります。

 

それよりも、「何を、どのようにするかは、みんな違う」ということを

「基準」にする方が、自然だと思いませんか。

このようにすれば、満たすことは可能です。

また、すべての学生が尊重されます。

 

「同じことを、同じようにする」というこれまでの基準が狂っているとわかりませんか。

異常なところに「基準」を置いているとわかりませんか。

少しでも違うことをする学生がいたら問題視しますが、

よく考えてください、自分にとって良いことを、自分で選んでいるだけでしょう。

至って普通のことです。自分にとって何が良いかは、自分が一番よくわかります。

みんなと同じことが良いとは限らないです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

5. 人は根本的に違うことを理解できていない

   教員の方々には、人は違うということを理解できていない方が多いように思います。

 かつて、自分が体験したことが、

 学生みんなに当てはまると思っているのではないでしょうか。

 学校が楽しかった人が教員をやっている傾向があると思います。

 楽しかった人は、クラスみんなが楽しんでいると勝手に思い込んでいます。

 しかし、楽しんでいるのは、ごく一部だと思います。

 

 まず、人は生まれながらに根本的になことが違います。

 根本的なこととは、身体・人種・国籍・家庭・文化etcのことです。

 もっと、自他の違いを強く認識してください。

 

 日本人は、外見上、同質性が高いですよね。

 ゆえに、中身まで同じとして自分の法則を他人にも当てはめているように思います。

 教員にそのような方が多いように思います。

 しかし、諸外国のように多民族で、構成されている場合を想像してください。 

 外見、宗教、文化etc何から何まで自分と違うということが前提ですよね。

 それが、目に見える形でわかりますよね。

 ゆえに、日本の文化を押し付けようとは思いもしませんよね。

 押し付ければ、マナーがなっていないとわかりますよね。

 諸外国と同様に、日本人にも、根本的な違いがあります。

 それが見える形としてわかりにくいだけです。

 

 人は、根本的なことが違います。

 だから、物事についての定義が違います。

 ゆえに、その定義から生まれた考え方が違います。

 

 他人の定義・考えは、自分には当てはまりません。

 使おうとしても使えません。

 他人のものだからです。

 教員は「背の順は意味・合理性がある」という考えを用いて押し付けてきました。

 しかし、教員と私は根本的に違います。

 私の考えは、「背の順は苦痛だ」です。

 このようにして、自分と他人の区別を認識してください。

 教員は、自他の区別がつけられていない人が多いです。

 自分に当てはまることは、他人にも当てはまると思い込んでいます。

 

 社会では、自他の区別をつけて尊重するのがマナーでしょう。

 学校でも、同様であるべきです。

 

 学校のあらゆる決まりは、教員が独善的に決めています。

 自分たちの考えを他者に押し付けています。

 よく考えてください。

 その考えを押し付けられるのは、学生ですよね。

 それなのに、学生抜きで何でもかんでも決めているのは異常です。

 そして、学生が、苦痛だと言ったら、わがままだ我慢しろと言います。

 足りないのは、学生の忍耐力でしょうか。

 いいえ、足りないのは、教員の自他の区別だと思います。

 自他の区別をつければ、違いを受け入れ尊重することが重要だとわかります。

―――――――――――――――――――――――――――――

6. 個性尊重・多様性尊重

 (前方に背の低い学生、後方に背の高い学生という順に並べたとします。)

 ①:先頭・前方 (背の順を苦痛に感じる学生のいる位置)

 ②:中央・中盤

 ③:最後尾・後方                      とする。

 

   背の順は、主に「前方の視認性の配慮」という意味で行われています。

 ここで問題なのが、教員が、「前方の視認性の配慮」という意味を絶対視していることです。

 

 つまり、教員たちは、「前方の視認性の配慮」の意味があれば、

 人を身長を基準にでべても良いと言っています。

 

 これは、「人の身体的な違いを基本とする人権意識」がないように思います。

 人の身体的な違いの順に並べるなんていうのは、論外な行いです。

 誰が一番小さくて・一番大きいかを際立たせるなんていうのは、論外です。

 背の順は、論外な行いです。

 つまり、個性尊重というものをわかっていないように思います。

 

 個性尊重とは、身体・精神・能力・立場 etcの色んな”違い”を受け入れることです。

 それらの”違い”を、目立たせることではありません。

 

 ましてや、

   背の順のように  身長で、場所を強制することではありません。

 身長を、目立たせることではありません。

   身長の差で並べることではありません。

   つまり、

 背の順を使う限り、個性の中でも根本的な”身体”を、尊重できていないことになります。

 

 

私は、個性とは、「人が持つ根本的な違い、感性の違い」だと考えます。

(これは、私の勝手な分類です。)

根本的な違いとして、身体・人種・国籍・家庭環境・能力・文化 etc  です。

感性の違いとして、言動・考え・選択・価値観・興味 etc   です。

そして、「根本的な違い、感性の違い」を受け入れるのが、個性尊重・多様性尊重です。

目立たせることではないです。晒すことではないです。

その違いで並べたり、比較することではないです。

 

 

尊重とは、その違いを、受け入れることです。

矯正し、変えることではありません。

個性尊重・多様性尊重のためには、根本的な違いはもちろん、

言動・興味・考え方などあらゆる違いを大切に受け入れる必要があります。

 

何故、個性・多様性を尊重しないといけないかと言うと、それらが才能だからです。

また、それらを尊重しないと、学生たちの心身に悪影響が出ます。

鬱・精神疾患などの症状が出ます。

自分の根本・感性を受け入れてもらっていると実感がないと学生の成長に良くないです。

個性の中でも特に、身体的なことについて侵害されると、人は精神疾患になります。

 

 

個性尊重無くしては、もはや教育では無いです。虐待です。

正直、日本の学校で行われていることの多くは、虐待です。

 

 

また、他人と比較しないのが、個性尊重・多様性尊重です。

ですから、能力的・身体的なことで、競争・並べる・順位づけるなんてのは、やめるべきです。

そのようなことは、一方に、高慢さ、他方に、屈辱感・憎しみを植え付けます。

そして、それらから、ケンカ・イジメ・非行などにつながります。

 

教員から見たものを押し付けるべきではありません。

私の場合、背の順は、教員から見た意味・合理性で行なっているのはわかっていました。

しかし、私としては、どう考えても同じようには思えません。

みんなで同じことをするというのは、決していいことではありません。

みんなでやることを絶対とする風潮により、自分が苦痛だと思うことを強要されます。

苦痛は、いろんな形で生活に支障をきたします。

 

――――――――――――――――

少し、いじめ問題について述べます。

個性尊重・多様性尊重はいじめ問題とも関係があります。

イジメが発生するのは、自分に自信がないからです。

自分に自信がない分を、他者をいじめることで人の上に立ち、

間違った自信を得ようとするからです。

それは、自信ではありません。

 

つまり、イジメを行う側に自己肯定感がないのです。

本の学校は、教育・指導と称して暴力・暴言を行ったり、

個性を否定したり、能力・身体を比較させたりします。

これでは、自己肯定感が育ちません。

イジメが起こるはずです。

 

イジメを無くすには、学生の個性を受け入れ、褒めることです。

もっと学生たちを褒めるべきです。

 

また、個性を否定したり、他者との比較・並ばせる・競争させるのは、やめてください。

 

―――――――――――――――――

 

現状では、個性尊重の重要性を、実感している教員は少ないように思います。

何故ならば、その重要性がわかるのは、自身の個性が危険に晒されたときだからです。

教員の多くは、学校が楽しかったという方々です。

個性尊重の重要性を実感するほどの苦痛にあっていないと思われます。

 

このように教育委員会に提案すると、

「個性尊重するように現場の教員に通達すればいい」と考えるのかもしれません。

それは、大切なことなので嬉しいです。

しかし、「個性尊重するように現場の教員に通達する」という手段は、十分ではないです。

なぜなら、それでは、教員の裁量任せだからです。

また、問題が起こった時に、教員としては尊重しているつもりだったと言えます。

教員の程度任せでは、危険です。

結局、教員の程度まかせだと、

尊重よりも支配でクラスが運営されます。

また、起きた問題を隠蔽することになると思います。

 

では、どのようにして、個性を尊重したらいいでしょうか。

私としては、構造的に個性を尊重する必要があると考えています。

その方法を、「学校の構造的な欠陥と改善について」、で説明します。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

7. これまで、背の順は問題として出なかったぞという方々

これまでがどうかは、重要だとは思いません。

何故なら、これまでは、意見を言える場所が学校現場しかなかったからです。

また、身体に関わる、センシティブなことなので、他人には相談しません。

現場では、この問題は、表に出ません。

しかし、今は、インターネットで言えます。

だから、ネット上に私と同じ意見がいくつかあります。

つまり、これまでどうだったかは、正しさの基準ではありません。

これまでどうだったかではなく、

教育界の皆さんは、これまでどれだけの学生の心に苦痛を与えたかを知ってください。

 

―――――――――――――――――――――

8. 組織の問題か、個人の問題か。

 背の順のとき、先頭には、針があります。

 針は、苦痛を感じる子だけに、見えます。

 先頭の子は、針が刺さって痛いのです。

 先頭の子は、取り乱す・不登校・非行etcの行為に出ます。

 すると教員は、この子を異常として扱い、排除します。

 さて、問題は解決したでしょうか。

 いえ、次は前から2番目の子に針が刺さるのです。

 

 この例えでわかっていただけませんか。

 問題は、問題を抱えている子ではありません。

 学生の個人的な問題ではありません。

 問題は、組織のやり方です。

 学校が学生に苦痛を感じさせているのです。

 

 針が見え、苦痛を感じるのは、少数の人です。

 だから、理解してもらえず、個人のわがままとされてしまいます。

 しかし、その人を排除しても、また次の犠牲が生まれるだけです。

 問題の本質である、針を取り除きませんか。

 組織に存在する見えない針を取り除くことで、 

 取り乱す・不登校・非行etcが減ると思います。

 

 学校に存在する”針”を放置して、

 学業etcを頑張れと言われても、全く無理です。

 苦痛で学業が手につきません。

 

 学生が、学業etcを学ぶためには、

 学校を構造的に快適な場所にする必要があると思います。

 学校で起きる問題の多くは、学校の構造の問題です。

 

――――――――――――――――――――――――――-

 

9. 学生が嫌がることは、単純にしないほうがいい

   教員の方には、学生が嫌がっても、強要するのが教育だと思っている方が多いです。

 しかし、よく考えてください。

 嫌なことは、誰だって拒絶します。

 そして、憎しみを持つようになります。

 学校のやり方に反感を持ち、教員を嫌うようになります。

 学生に強要することは、学校・教員、両者にとって良くないと思います。

 嫌がることには、理由があります。

 その理由を理解できるかどうかに関わらず、人が嫌がることはしない方がいいです。

 人が嫌がることはしないのは、人間関係の基本です。

 

   教員から見た意味・合理性があるからと言っても、

 苦痛を感じている学生にはなんの効果もありません。

 苦痛を感じている学生からすれば、苦痛が圧倒的です。

 

 苦痛だというのですから、事実その子には苦痛なのです。

 どれだけ意味・合理性を押し付けても、その学生は教員に反感を持つだけです。

 その学生とうまくやっていくには、教員から見た意味・合理性を説くのではなく、

 その学生を尊重するしか無いと思います。

 

 

―――――――――――――――――

10. 本当に学ぶべきは、教員

本当に学ぶべきは教員じゃないでしょうか。

人権意識を高めるべきは、教員じゃないでしょうか。

教育関係者は、背の順に違和感を持って、改善すべきだと気づいてください。

身長を意識させる並べ方である背の順は、すごく失礼なことです。

背の順で人を並べるのは、教員から見た理由があっても、絶対にすべきではないです。

人に対して、下品で卑劣な行いをしているとわかりませんか。

教員の方々は、人権意識があまりないように思います。

 

また教員の方は、背の順のように、

人を身体的なことで決めつけたりする方が多いように思います。

人を何かと、外見で見ている人が多いように思います。

一般に、人は幼少期は、人を外見で見る傾向があります。

しかし、教員は大人ですでしょう。

人を身体的に判断するのは、やめてください。

本当に、結構数、無神経極まりない行いをする教員がいます。

特に、体育教員にその傾向があると思います。

人権感覚を養ってください。

 

体育教員には、本当に信じられないくらい柄が悪い人が多いです。

暴言・暴力で問題になるのも、この種の人たちが多いと思います。

教員が学生を抑圧すれば、波及して、

学生間のイジメなどが起きやすくなるとわかりませんか。

暴力を行う学生を止めるために必要だというならば、

それは体育教員ではなく、警備員・警察でいいと思います。

そのほうが、校内暴力の抑止力としても有効だと思います。

体育教員は、教育の現場に必要ないように思います。

 

また、多くの教員は、学生が年下であり、学生という肩書きだからと言う理由で、

人として尊重しない関わり方をしています。

まず、呼び捨てはダメです。

社会で大人同士で呼び捨てしますか?しませんよね。

何度も言いますが、一市民として関わることが大切です。

さらに、教員には、学生を軽く扱ったり、蔑んだ態度を取る人もいます。

最悪の人間です。このような人も体育教員に多いです。

このようなことをするのは、実は自分に自信がないからです。

だから、相手を押しつぶすことで安心したいだけです。

人間として、浅はかです。学生をひとりの一市民として扱い、関わってください。

 

背の順のような問題を放置すれば、学生は教員を信頼してくれなくなります。

「教員たちが決めること・指示することは、自分を幸せにしない」という認識が出来上がります。

そして、言うことを聞いてくれなくなります。

また、単純に考えて、嫌な思いをさせる人の指示に従うはずがありません。

 

学生が、「この規則・習慣は、人権侵害であり、苦痛です」というならば、

すぐに改善してください。

そのような訴えにも関わらず、教員から見た意味・合理性を押し付け、苦痛を感じさせるのは、

もはや、教育とは言えないです。

それは、虐待です。

教育は、学生が安心できる状況があって初めて成り立ちます。

一部の学生は、背の順がある限り、教員を信頼できないです。

信頼されるためには、学生が苦痛だと思うことは、改善する方がいいと思います。

 

また、教員の方々は、暴力・暴言・イジメに加担するなどは、犯罪であると知ってください。

体罰ではなく、暴行・傷害です。

イジメではなく、犯罪です。

社会のルールの基本です。

遵守してください。

教員は、何か、もっともらしい理由をつけて暴力・暴言を行いたがりますが、異常ですよ。

理由があればやって良いことではないです。

しかも、その理由も、教員を絶対な正義として、理由づけしたものです。

自分に都合よく意味づけした理由です。

 

教員はもう少し、憲法・法律を学ぶなどしてください。

研修などで、憲法・法律を学んでください。

そして、人権意識を持ってください。

 

教員の方は、自覚がない・無意識なのか知りませんが、

教員が普通だと思う関わり方が、学生にとっては横柄だったりします。

その関わり方が、スタンダードになっているから、わからないのかもしれませんが、

学生を見下した態度の方が多いのは、如何なものかと思います。

これも、「先生」という肩書きを捨て、一市民として関わることにより幾らか解消されます。

そのように、関わってください。

人には、認知バイアスが存在します。

教員が普通だと思っている振る舞いが、

学生の恨みを買い・信頼されなくなっていることがあります。

教員は、もう少し、自分たちの側に間違いがあることを知ってください

 

はっきり言って、学校は社会から外れた閉鎖空間です。

異常なことが起きるのはそのためです。

その異常な場所に長年所属し続けるのですから、常識的じゃなくなっていると思ってください。

 

教員の多くは、一生を学校という場所で過ごすと思います。

大学卒業後、直ぐに学校に就職した人が大半だと思います。

そのような人は、学校の中の規則・習慣で頭が縛り付けられていて、

学校的な考えから出られないように思います。

当然です、学校から学校に戻ってきたのですから。

狭い価値観の人間が教育を担うことの危険性がわかりませんか。

狭い価値観で縛り付けるだけでも、子供たちの心を精神疾患に至らせます。

さらに、狭い価値観の人間は、自分を正義として、横暴に振る舞うようになります。

それがまさに、教員による暴力、暴言などです。

この場合、学生が死んだり、自殺に追い込まれたりします。

 

幼少期から思っていましたが、

大人になり心底わかるのは、教員の多くは、アテにならない、信頼できないということです。

「先生」という言葉の本来の意味に合致するような人は、一人もいません。

 

もし、学生に反発されたり、信頼されなかったら、

それは相応のことを教員がやっている証拠です。

信頼されないこと、学生が苦痛と思うことをやっている証拠です。

昨今、教育界に対する風当たりが強くなっているかもしれません。

しかしそれは、相応のことを教育界がしている証拠です。

もう少し、自らの汚れを自浄してください。

 

私のこの記事が教育界に送られるのも、相応のことを学校がしているからです。

問題がなかったら、居心地がいい場所だったら、こんな記事送らないのですから。

 

正直、学校は、社会から見て相当迷惑な機関になっています。

非効率なこと・人権侵害なことを学生に刷り込み、考えさせない、自分で考える人間が育たない、

議論ができないなど、社会・経済面から見て、すごく迷惑なことをしている場所です。

 

教員の皆さんは、自分たちが狂った場所にいて、狂った場所を作っていると、自覚してください。

一度学校という場を出てください。いかに狂った場所かわかります。

できれば海外に出てください。

日本の教育を受けた人々が作り出している日本社会も、かなり狂っています。

日本社会に出ただけでは、視野の広さとして、十分では無いです。

 

狭いところで、何十歳も年下相手に、横暴に振舞わないで下さい。

大学を出て、直ぐに教員になった方がほとんどだと思いますが、

あまりにも社会経験が足りていないということを感じませんか。

あまりにも狭い世界に生きているとわかりませんか。

そして、狭い世界で子供達を苦しめているとわかりませんか。

あなたたちの狭い価値観で決めた物事により、多くの学生を苦しめているとわかりませんか。

 

教員の方には、子供たちを従わせることにより、自己肯定感を得ようとする方が多いです。

本来、これは、自分自身で得る、または、他人に貢献することで得るのが健康的です。

しかし、多くの教員は、子供たちを従わせて、得ようとしてませんか。

意識して無くても、そうなってます。

子供たち相手なら、楽な仕事だとか、横暴に振舞っても許されるとか思って、

教員になっているような人も多いです。

 

ここまで書いても、恐らく、自分たちが正しいと思う方が多いでしょう。

教員の認知バイアスは相当強くかかっています。

正直、私にとって、教員は最悪な人たちです。

人権意識が無く、子供たちを尊重できない人です。

自分から見た意味、合理性だけを正しいとして、狭い場所で横暴に振る舞う人たちです。

とてもじゃないけど、尊敬はできないです。

 

教員は、もう少し人の人生を担っているという意識を持ってください。

人権侵害、差別、等は人の人生を壊します。

想像できないのかもしれませんが、すごく酷いことをしているとわかってください。

学生の人数が多いから、個人を尊重することはできないのが現状かもしれませんが、

それならば、現状の学校システムを批判して、改善しようとしてください。

それもできないならば、既存の学校教育を存続させないために、

教員になるべきではないです。既存の学校システムを継続させるべきではないです。

 

本当に学ぶべきは、教員ではないでしょうか。

教員に、社会経験・視野の広さ・人権意識などが足りないのではないですか。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

11. 整列はいらない

そもそも、整列は科目ではありません。

科目を学ぶ際に生じている、余分な副産物です。

副産物で学生が苦痛を感じているわけです。

副産物で苦痛を感じて、教員との信頼関係がなくなり、

肝心の科目が学べないのは、おかしいです。

ぱ最近、副産物により学生が苦しむという事例が多いと思います。

整列を必要だと思うのは、教員の固定観念だと思います。

 

「社会に出た時、整列できないと困る」などの意見がありそうです。

しかし、学生は日常生活で一市民として列に並ぶことは多々あります。

学生は、社会で順番待ちとして列に並ぶなどは当たり前だとわかっています。

学校で行わなくても、社会マナーとして学びます。

仮に、教えないと並ばない学生がいるのならば、

社会マナーとして数回教えれば十分です。

頻繁に整列を強要する必要はありません。

 

「整列しないと無秩序だ」という方がいそうです。

しかし、好きな形で集まることは、無秩序ではありません。

「好きな形=無秩序、無秩序=悪い」とするから問題になるのです。

例えば、円形に集まれば問題でしょうか。

扇型に集まれば問題でしょうか。

問題ないと思います。

 

「好きな形で集まれば、話を聞かなくなる」などの意見がありそうです。

しかし、話を聞くことは、マナーとして教えればいいです。

整列という手段によって行われる必要はありません。

整列を教えないと、修学旅行などの時に周りに迷惑をかけるという意見がありそうです。

修学旅行の時は整列すればいいと思います。

私が言っているのは、整列を乱用しないでくださいと言っているんです。

 

話を聞く、順番を守る、道をふさがない、外部で迷惑をかけないなどは、

社会マナーとして教えればいいです。

整列という副産物によって行われる必要はありません。

 

過剰な整列は、教員の支配欲の表れだと思います。

教員の自己満足だと思います。

または、外部から見た体裁だと思います。

何かと並ばせたがる文化を無くしていただきたいです。

学校教育には、副産物が多すぎます。

 

そもそも、整列はいらないです。

さらに、背の順はもっといらないです。

仮に、整列が必要だとしても、

背の順は人権侵害です。

 

―――――――――――――――-

12. 体育教育の改善。

 体育教育は、学生の精神を抑圧している場合が多いです。

 まず、体育は、軍事教練の名残だと思います。

 整列から始まり、並び方まで事細かく命令、

 号令とマスゲームのような行進、科学的技術・方法の説明無しの授業です。

 

 さらに、中高の場合、体育教員はやたらに威圧的・攻撃的です。

 その威圧を見て受けていれば、意見や提案を聞くことができない人だとわかります。

 体育教員が対話と尊重のできる人であったならば、私の背の順問題は解決したと思います。

 

 また、体育では、背の順が多用されます。

 体育教員は、体格の大きな人が多いです。

   背の順のとき、先頭、前方ではなかった人にでしょう。

 これでは、背の順を苦痛に思う学生に、共感できないわけです。 

 

 現状の体育は科学に基づいた技術・方法を学べる授業ではありません。

 ひたすら威圧により服従を強要される科目です。

 学校は、学術の場です。

 

 威圧されては、萎縮し学業にも支障が出ます。

 教員による威圧は、学生間に波及しイジメにつながります。

 

 スポーツを学びたいという学生は、外部のクラブetcに参加すればいいです。

 外部の方が科学的な面からアプローチした教え方をしてくれます。

 

 改善として、

 まずは、軍隊的な慣習・行進・命令・威圧etcを無くし、

 科学的アプローチによる上達を中心にした授業に変えてください。

 

――――――――――――――――

13. 学校教育と蜘蛛の巣

 学校において学生の言動が問題とされることが多々あります。

 これは本当に問題でしょうか。

 細かい瑣末なことにまで指摘することが、問題だと思います。 

 また、問題を生み出しているのは、

 瑣末なことを指摘する「先生」という存在ではないでしょうか。

 

「学生らしさ」などというのは、教員の勝手な押し付けです。 

 学生を縛り付け、苦痛・劣等感・屈辱感・憎しみを植え付けています。

 

 問題は、細かい瑣末なルールを作ればたくさん起こります。

 つまり、ルールは蜘蛛の巣のようにもなります。

 張り巡らせれば、多くの問題が起こります。

 今、学校のルール・習慣・構造は、蜘蛛の巣のように学生の足を引っ掛けにきています。

 ルール・習慣・構造は、増やせばいいというものではありません。

 ルール・習慣・構造の負の面も見る必要があります。

 

 これからは、増えすぎた無駄なものをどうやって減らして快適にするかが重要です。

 学校も同様で、規則・習慣・構造etcいらないものが多すぎます。

 それによって学生が苦しんでいます。

 減らすことにより快適な状態を作る必要があります。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

14.  副産物はいらない。

学校には副産物が多すぎます。

その副産物は、無くてもいい規則・習慣です。

背の順であったり、整列・行進・号令・体育祭・組体操・文化祭etc色々あります。

全ていらないです。

副産物は、誰かを苦しめる恐れがあります。

 

学校は、座学・科目を学ぶ場所であればいいです。

そこに、習慣・規則・行事など不要なものが含まれすぎです。

それらにより、苦痛を感じる学生がいます。

 

5教科7科目を学べる場所であれば十分です。

体育はいらないです。

体育は、ただ威圧されて、抑圧される科目だからです。

体育は、集団主義を押し付けて、縛り付ける文化を生み出します。

さらに、体育教員は、学生を尊重することのできない人が多すぎます。

暴力・暴言で問題になる教員の多くは、体育教員だと思います。

このような、暴力的な人間は、学びの場である学校には必要ありません。

日本、及び日本社会に人権意識が根付いていないのは、

学校教育において、人権が尊重されてないからです。

そして、特に体育においては、酷いです。

体育、体育会系は、日本社会のパワハラ等を作り出しています。

日本社会の癌だと思います。

 

何か目的があって、そのための手段があるとします。

この時、手段によって、誰かが苦しむのであれば、その手段はやめるべきです。

そして、他の手段を選ぶべきです。

他にいい手段がなければ、そもそもの目的が必要かどうか考えてください。

誰かが苦しむ手段を使ってまで、達成するほどの目的かどうか考えてください。

そこまで重要な目的ではないでしょう。

なくてもいい目的ではないでしょうか。

その目的は、誰かが苦しまないように変えられることではないでしょうか。

 

私は、誰かが苦しむならば、目的も手段も捨てていいことだと思います。

また、目的も手段も自由に変化させられることだと思います。

 

――――――――――――――――――――――――――――

15. 学校教育において、いらないと思うものを挙げます。

社会では無い規則、習慣をおこなうことは、

学校が異常な場所になることの始まりです。

そして、これらが、学生を苦しめます。

学校にある余分な副産物は、取り除いてください。

以下のものがなければ、教育ではないですか。学校ではないですか。

そんなことないと思います。

教育・学校の本質とは関係のないことで学生を苦しめているとわかってください。

 

  1. 背の順

 ➡︎この記事で詳しく説明していますが、

  学生間に、身長による優劣・良し悪し・序列意識・侮辱的意味づけを生み出す。

  そして、先頭・前方の学生が苦痛を感じる。また、侮辱されるきっかけになる。

  教育として、必要ではありません。やめてください。

 

2. 整列・号令・行進・集団行動

 ➡︎これらも必要ないです。全て軍隊からの名残です。

      個人を束縛して、過剰にみんな一緒を押し付ける習慣です。

      これらが、息苦しさ、閉塞感を生んでいます。

      また、背の順を正当化する理由としても用いられています。

      しかし、背の順だけでなく、そもそもこれらがいらないです。

  また、これらにより、協調性などが学べると言う方がいます。

  まず、これらにより協調性が学べるかどうか怪しいです。

  さらに、協調性を、何だと定義しているのでしょうか。

  協調性は、軍隊的なことでないと学べないのでしょうか。

  他の手段では協調性は養われないのでしょうか。

  人の違いを無視して、同じようにすることが協調性ではないです。

  私は、協調性を、人の違いを尊重した上で、協力することだと考えてます。

  その意味で、軍隊的なことは協調性ではないと思います。

   

3. 体育・体育教員

 ➡︎従わせるばかりの科目になっている。

  特に、高校の場合、集団行動・行進など全体主義を押し付ける。

  個人の運動能力の違いを無視して、晒し者にする。

  イジメなどにつながりやすい。

  体育教員は、威圧をして、学生を攻撃する人が多い。

  自分に従わせようとし、暴力・暴言なども多い。

  言語によるコミュニケーションが下手であり、一方的に命令をする。

  教育機関において、暴力・暴言ばかりで、コミュニケーションを取れない人は必要ないです。

  これらは、学生にとって苦痛になる。

  体育会系の持つ文化には、幾らか暴力性がある。

  体育教員からしたら、普通の関わり方かもしれないが、学生からすれば凄く苦痛。

  ここにも、認知バイアスがある。

  背の順の問題性についても、体育教員は、

  自分が理解できないから改善はしないとして、強行するような人が大半だと思います。

  とにかく、体育教員は、理解がなく、コミュニケーション能力が無く、

  威圧的で暴力的な方が多かったです。

  そして、学生が苦痛を感じたり、悩むのも体育に関することが多いと思います。

  つまり、体育と体育教員はすごくタチの悪いものなのです。

 

  一応、言いますが、全ての体育教員が上記に該当するとは言いません。

  しかし、傾向として、上記のようなことがあると思います。

 

4. 集団主義全体主義

 ➡︎学校は過剰にこれらを押し付けます。

     これらは、個人を束縛し、スクールカーストなどのイジメの構造を生み出します。

 

5. 全校集会

 ➡︎時間と労力の無駄です。

      校内放送で伝えればいい、各教室にモニターで放送すればいい、

      各担任が教室で読み上げるなりすればいいです。

      全校生徒がわざわざ体育館に移動して、話を聴くのはあまりに非効率です。

 

6. クラス・学級制度

 ➡︎これが、イジメの元になるスクールカーストを生み出しています。

  固定されたメンバーで、関わらないといけないことにより、

  スクールカーストが形成されやすくなります。

  そして、イジメに至ります。

 

 

7. 体育祭・文化祭などのイベント

 ➡︎このようなイベントは、参加型にすればいいです。

      やりたい人だけでやるのがいい。

      全員参加は、スクールカーストをつくります。

  そしてイジメにつながる。

  体育祭に関して、具体的には、組体操・ピラミッドなどは、やめるべき。

  事故事例もあり、危険です。

 

8. ブラック校則・習慣

 ➡︎これは、言うまでもなく人権侵害、虐待です。

      教員から見た意味、合理性で、正当化しないでください。

      黒染め強要、背の順など、たくさんあります。

 

9. 指導・教育と称しての、暴力・暴言・恫喝

 ➡︎これは、絶対に無くしてください。

      指導、教育と称して正当化しようとしますが、ただの、暴力、暴言、恫喝です。

      ただの犯罪です。

       傷害罪、暴行罪に該当します。

       教育現場で、これらは、不要です。

 

10. 先生・教育・指導という概念

 ➡︎まず、すでに他の項目で挙げましたが、先生という概念は、権力の暴走を引き起こします。

       学生に対して横暴になります。学生の意見が聞けなくなります。

      学生を尊重できなくなります。

      次に、教育、指導という概念です。

      これらは、教員がする横暴な行いを正当化する道具になっています。

      本当の教育は、尊重が無いといけません。

      そもそも、教育、指導という言葉が、一方的です。

      学生の意見をきかずに、一方的にこれが、教育だ、指導だと言って、押しつぶすやり方です。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

16.集団教育は、不幸なシステム。

 

集団教育は、非常に不幸なシステムです。

その不幸を、学生個人のものとしないでください。

問題は、学校が構造的に生み出しています。

私の場合は、背の順が原因でした。

教員の方は、既存の教育システムを批判的に見ていただきたいです。

 

既存の集団教育に疑問を持たないのは、

教員が学校を自分にとって楽しかった場所としてしか見ていないからでしょう。

教員という立場ならば、今、目の前にいる学生にとってどうだろうと考えてください。

教員の感覚を中心にクラス運営をしないでください。

教員が差別・人権侵害を作り出しています。

 

教員は学校が居心地良かった方が、多いと思います。

しかし、苦痛を感じている学生が結構数います。

苦痛を感じている学生にとっても、居心地のいい場所にするには、

既存の教育体制をやめる必要があると気づいてください。

既存の教育構造は、相当昔に確立されて、長いこと変化していません。

国際的に見て相当な遅れをとっています。

教員が、教育というものをどう考えているかは、わかりませんが、

学生が幸せに安心して過ごせる場所を学校とするならば、

既存の教育体制を批判し、教員が主導で改革していただきたいです。

そうでないならば、あまり教育というものを深く考えていないのかと思います。

学校が、自殺者が出るような場所・安心できない危険な場所であってはいけないと、

気づいてください。

 

そもそも、教育というものに携わるのならば、

既存体制を否定的にみて、改善を主導していただきたいです。

本当に教育というものを志していたら、集団教育は、崩壊させるべきだと考えると思います。

しかし、そのように見ないあたり、教員・教育界の人々は、

学校などを職場としてしか見ていないのかと思います。

学生が学ぶ場所というよりは、教員の職場になっていると思います。

 

正直、既存の教育体制は、崩壊したほうがいいです。

犠牲者の立場になってみてください。酷いものですよ。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-

17.  既存の教育は「学生を悪」とすることから始まっている

既存の教育は、「学生を悪」とすることから始まっています。

どういうことか説明します。

教育界には、「教員が学生に、事細かに指示を出し、強要しないと悪くなる」という、

前提があるように思います。

この前提により、「悪くなるのを正すのは、教員は正義だ」となります。

つまり、「教員は正義だ」となっています。

無意識でそのように思ってはいませんか。

多くの教員は、学生の言動に対して、学生に問題があるとして、威圧的に関わります。

しかし、学生からすれば、理由があります。

ところが、言いたく無いことなのです。

または、うまく言い表せないことなのです。

 

教員が理由を聞いたからといって答えるわけがないです。

何故ならば、その理由は非常にセンシティブなことだからです。

家庭のこと・身体のこと・友人関係・過去のイジメ被害など、

教員に相談したくないのです。

学校は、問題を抱えていても、その問題の原因を教員に説明しないと、解消されないです。

また、相談しても、解消されなかったりします。

 

しかし本当に、放っておけば、指示を出さなければ、強要しなければ、悪くなるでしょうか。

悪くならないと思います。

そもそも何故、「学生を悪い」としているかといえば、問題を起こすからでしょう。

しかし、問題を起こす理由を考えてください。

なんらかのことで苦しんでいるからではないでしょうか。

例えば、学校による人権侵害・家庭環境・人間関係etc、いろいろあります。

 

「苦しんでいる→ 問題を起こす→ 悪いとみなす」が一連の流れです。

ところが、教員は、「問題を起こす→ 悪いとみなす」の部分だけを見ています。

何らかで、苦しんでいると分かる必要があります。

そして、その理由が、学校・教員であることが多々あります。

 

学生が、学校の何らかで苦しんでいるということを想像できないのは、

教員は、学校が楽しかった人たちだからです。

学校の何らかで、苦痛を感じることがあるという感覚がないのだと思います。

学校肯定派の人間だからです。

 

また、学生を悪いとした方が、考えなくていいから楽なのだと思います。

なぜ学生が、そのような言動に至るのか、考えなくていいからです。

 

また、学生を無知で、怠けた人間だとして捉える傾向があります。

そのほうが、教員を正義としてられるからだと思います。

 

本の学校の教員は、あまりにも先入観が強いように思います。

自分たちが学生を苦しめているということを想像する余地がないように思います。

教育現場に学生の気持ちを考える余裕がないと思います。

教員を正義として押し付けるだけだから、何も改善されずに、

学生の苦痛は、イジメ・非行などに向かいます。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

18. わがまま、ではない

 背の順による苦痛を一部の学生は、強いられているわけですから、

 学校生活の上で、言動として苛立ちの感情が表に出ます。

 つまり、逸脱行動をとってもおかしくはないです。

 すると、従え・わがままだと罵られ指導が行われます。

 果たしてその指導は妥当でしょうか。

 人の嫌がることを強行しておいて、拒絶されたら、従えと言うことは、

 横暴だと思います。

「わがままだ」と言う人は、集団の中で嫌な思いをしていない人たちです。 

 自分の感性を普遍的として、楽をしている人だと思います。

 「わがままだ」は、多数派・支配者の行う言葉の暴力です。

 何かと理由をつけて、他者を従わせたい人たちです。

 だから、平気でわがままだと言います。

 しかし、本来は、わがままではなく、苦痛を感じていたら誰でも拒絶します。

   わがままだ、という言葉を使って権力者の意見を全員に押し付けるのは、全体主義です。

   全体主義は、全体主義、全員が幸せになる方針ではありません。

   全体主義は、権力者の個人主義です。

―――――――――――――――――――――――――――――――――-

19.”何でもかんでも、教員が独断で決める”。これが不幸の始まり。

 よく考えてください。

 他人の身体について指摘すること。

 それを基準に並べるということ。

 これらは、人権侵害でしょう。

 デリカシーに欠けるでしょう。

 世の中には、言わなくてもいいのに、他人の身体的なことを指摘する人がいます。

   背の順はまさに、その人と同じです。

 背の順のたびに、「あなたは、一番背の低い人ですよ」と言われているわけです。

 先頭・前方の学生は、そのように感じるわけです。

 

 背の順のような人権侵害が起こる理由は、

 組織が、そこに属する人を”所有物”のように扱っているからではないでしょうか。

 学生は、人格のある人間です。

 つまり、

 教員が、何でもかんでも、方法や考え方を決めるべきではありません。

 並び方の基準まで事細かに決めるべきではありません。

 ましてや、身体的なことである「身長」を基準にするなんて、人権侵害です。

 

 教員の多くは、学生時代楽しく過ごせた人だと思います。

 だから、学校で行われる習慣に疑問がありません。

 背の順で苦痛を感じる学生の気持ちをわかりません。

 そして、 教員は、背の順を強行しているわけです。

 苦痛に感じることを、強制してくるのです。

 すると、苦痛を感じる学生からすれば、教員は敵になってします。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

20. 教員は、業が深い

教員という職業は、業が深いです。

教員の方々は気づいていないのかもしれませんが、

教員という職業が、幼少期の子供達に与える影響はすごく大きいです。

 

現在、教育現場では、教育・指導と称して暴行・傷害・脅迫・恐喝が行われています。

また、イジメを放置したり、加担したり、教員主導でイジメをしたりする事件が起きています。

そして、学生が自死するということにつながっています。

自死に至ってなくとも、相当の、精神的・身体的虐待を受けています。

これらの問題は、教員が自分を正義として、自己正当化した先に起きると思います。

 

「教員の方が正しい・賢い・偉い、

だから、学生は従うべきだ」という理屈で横暴なことが行われます。

 

これは、ただのマウンティングです。

自分にあって他人にないものを取り上げて、他者より優位に立とうとする人がいます。

例えば、賢さ・偉さ・年齢・肩書き・年収・学歴・身体・容姿・能力などです。

しかし、よく考えてください。

都合よく、正しさ・賢さ・偉さなどを、相手に無くて自分にあるとして、

攻撃しているだけでしょう。

自分に都合のいい評価軸を作り出しているだけでしょう。

取り上げたものは、自分にあるとは限りません、また他者に無いとは限りません。

学生には、教員よりも正しさ、賢さ、偉さがないと勝手に決めつけて、

それを理由に攻撃しているだけです。

教員の方が正しいなどの事実はないです。

教員が勝手に自分の都合のいい評価軸を作り、自分を優れているとしているだけです。

さらに、仮に、事実、優れているとしても、横暴に振舞っていい理由にはならないでしょう。

 

 

差別・迫害・人権侵害は、何か理由をつけて、何か特徴の違いを取り上げて、

相手に、自分と同じような権利・尊厳を認めなくていいとして、攻撃することでおきます。

実際、歴史上、黒人差別などは、黒人は白人よりも知能などの面で劣るから、

白人が黒人を導かなくてはいけないとして、同等に扱いませんでした。

つまり、知能で劣るからという根拠のない理由をつけて、

黒人の権利・尊厳を認めなかったわけです。

教員も学生に対して、同じようにしていませんか。

 

 

学生が何か規則、習慣等に従わなかった場合、

それを破ったからという理由で罰則、指導と称して攻撃している教員が多いです。

学生が規則等に従わなかった場合、それを学生を攻撃する理由にして、

マウンティングを取っていませんか。

学生を一方的に悪いと決めつけていませんか。

 

理由を聞くことを、大切にしてください。

仮に、理由を言わなかったとしても、わがままと決めつけてはいけません。

言いたくないだけで、理由が必ずあります。

 

上記の場合に、攻撃的になる教員は、自分の内にある苛立ちを、罰則、指導と称して、

都合よく理由をつけて学生に向けているだけです。

学生が規則、習慣を破ろうが、冷静な教員な人は、冷静に対応します。

どんなときも冷静に対応してください。

暴力、暴言は、愛の鞭などではなく、ただの横暴さを正当化しようとしているだけです。

 

 

教員の方は、自覚がない・無意識なのか知りませんが、

教員が普通だと思う関わり方が、学生にとっては横柄だったりします。

その関わり方が、スタンダードになっているから、わからないのかもしれませんが、

学生を見下した態度の方が多いのは、如何なものかと思います。

これも、「先生」という肩書きを捨て、一市民として関わることにより幾らか解消されます。

そのように、関わってください。

 

 

人には、認知バイアスが存在します。

「私は、先生だから、必要なら学生を殴ってもいい。暴言を吐いてもいい。

それらは、教育・指導だ」と思っているのかもしれませんが、そのような権利はないです。

また、暴力・暴言を、教育・指導と称し、正当化して、行なっているのかもしれませんが、

正当化してるだけです。

「先生」という肩書きに暴力・暴言を行う権利はないです。

「先生」という肩書きは、正しさ・権力の象徴ではありません。

 

しかし、学生に一方的に物事を強要する前提の教育をしていると、

何にしても、無意識に強要するようになるのでしょうか、

そのような方が教員には多いと思います。

そして、さらに過激になり、暴力・暴言をしてもいいという風になるのかもしれません。

暴力で事件になった教員が、「殴ることで部が強くなると思った」等の発言をしますが、

本心で言っているのなら、認知バイアスが相当強くかかっています。

また、「正しく指導したつもりだっった」等の言葉も同様です。

 

教員個人に関わらず、学校・教育界全体が認知バイアスが強くかかっています。

教員の暴力・暴言などで学生が自殺した場合、

「指導死・行き過ぎた指導・体罰死」などの教育用語で正当化・緩和しようとしています。

これが、意図的なのかどうなのかは、疑問です。

恐らく、意図的に、教育用語に変えて、正当化していると思います。

しかし、これらは、明らかに、殺人事件です。刑事事件です。

本来は、司法に裁かれることだとわかりませんか。

教員には、憲法・法律を知り、遵守している人が少ないです。

ほとんどの教員が、憲法・法律を意識せずに学生と関わっているように思います。

 

 

教員の多くは、学校が楽しかった方だと思います。

すなわち、学校において、うまくいった人たちです。

だからこそ、悩み苦しんでいる学生に対し、理解を示さず、

その学生が悪いとして、攻撃的になり、追い詰めている場合があります。

「成功体験ほど、ひとの目を曇らせるものはない」と思います。

学校が楽しかったという認知が、バイアスとして働き、

学生を追い詰めていることに気づいてください。

また、「先生」という肩書きが、「偉い・正しい」というバイアスを、

作り出していることに気づいてください。

学校が楽しかったという教員ほど、自信を持っているため、

自分に従わない学生に攻撃的になったりします。

 

 

学校で起きる事件に対して、多くの教員は他人事なのかもしれませんが、

現状の学校の体制・構造上どこの学校のどこのクラスでも起こる危険性があります。

事件は、その学校の事件の当事者だから起きたわけではありません。

どの学校でも常に危険です。

イジメ・教員による虐待などが起きています。

学校は、とてもじゃないですが落ち着いて安心できる場所ではありません。

人によっては、地獄です。

教員の方が、どこまで実感を持ってこの危険性を認識しているのか疑問です。

 

教員の方は、学校が楽しかった方でしょうから、

学校が地獄である学生に気づくのは難しいです。

また、どこにリスクが存在するのかわからないでしょう。

学校肯定派というのは、学校内にある危険を察知する能力がないと思います。

気づいた時には、事件になっています。

もっと、学校を、問題がある場所として否定的に見てください。

既存体制は、崩壊した方がいいです。

 

学校において、教員による暴力・学生間のイジメなどにより、

学生が自殺をしている現状をよく考えてください。

異常なことでしょう。

学びに来ているのであって、傷つき、死にに来ているのではないのですよ。

 

教員の多くは、大学卒業後、学校という狭いとじられた世界に長い間居続ける人だと思います。

単純に考えてください。

視野が狭くなっているとわかりませんか。

教員は、5年ごとに学校と民間を行き来するシステムに変えた方がいいです。

また、海外留学、海外での仕事経験のある人の方がいいです。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

21.ラベリングによる正当化

学校で、学生が問題提起したら、

教員から見た、意味・合理性を言って、自己正当化する教員が多いと思います。

「我慢だ・わがままだ・社会に出たらそういうことはあるから仕方ない」など正当化する発言をいう教員は多いです。

しかし、それで学生の苦痛は無くならないです。

 

まず、「我慢」はいいことではありません。

「我慢」では、問題は、解決されないからです。

苦痛を心の中に溜め込んで、いずれ何らかの形で爆発するだけです。

それがイジメ・非行・不登校など色んな形として出ています。

 

次に、「わがまま」ではありません。

苦痛を感じれば誰だって、拒絶をします。

自然なことです。

「わがまま」というラベリングは、苦痛を感じていない人が、

意見を押しつぶすために使う手口です。

 

次に、背の順の場合「社会に出たらそういうことがあるから仕方ない」というのは、嘘です。

社会では、背の順のように人を身体的基準で並ばせるという卑劣で下品な行いはしません。

平然と嘘を言わないでください。

 

また、「社会に出たら、人権侵害な習慣・規則などがあり、それで嫌な思いをすることがある」という意味で言っているのならば、確かに社会にはあります。

しかし、社会のそのようなものは変えるべきものです。

社会に人権侵害な習慣・規則があるから、

仕方ないという理由で学校でも仕方ないとするのは、教育とは思えません。

社会でもあるからと言う言葉は、学校の理不尽を肯定する理由にはなりません。

むしろ、そのような習慣・規則を変えれるように教育をすべきではないでしょうか。

そもそも、社会も間違っていますし、学校も間違っています。

どちらも改善すべき点が多くあります。

その前提で、習慣・規則を改善することを、

教育した方が社会的・将来的に有益だと思います。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-

22. 先生という概念は使わない方がいいです。

学校において、「先生」という概念は使わない方がいいです。

この概念が、学生・教員双方を縛っています。

「先生」は、尊敬されなければいけないという古い考えがあるからです。

尊敬されたい・尊敬されなければいけない

また、尊敬されなければいけないという考え方は、

教員にとってもプレッシャーになるでしょう。

「先生」なんて呼び名は、尊敬できるから使っているのではないですよ。

先生と呼ぶことを強要され、先生と呼ばないとあなたたちが機嫌が悪くなるでしょう。

だから、学生は、教員の要求に合わせてくれているだけですよ。

先生という継承にふさわしい人なんて学校に一人もいません。

 

学校という箱があり、そこに入った途端に、

10代の若者は「学生」、何十歳も年上の大人は「先生」となる。

これが、多くの問題を生み出しています。

「先生」という名称は使わずに、サポーター・スタッフに改名していただきたいです。

 

社会において、10代の若者に対して、年下だからと言って、

大人が命令・考えの押し付けをしますか。

どう考えても、しませんよね。

また、犯罪にすらなりますよね。

訴えられます。

 

しかし、学校という「閉じられた箱」に入れば、違うのです。

これが異常です。

学校という箱に入った途端「学校・教育・先生・学生」というラベリングがされます。

大人は、「先生」のラベルが貼られ、若者は、「学生」のラベルが貼られます。

先生は、学生を低く見始めます。

そして、「教育」という名の下に、人権侵害さえ起きています。

 

では、何故そのようなことが起こるのでしょうか。

それは、「学校・教育・先生・学生」という概念が原因のひとつです。

「学校」には、「教育の場所」という意味が含まれています。

「教育」には、「正しいものが、未熟なものを導く」という意味が含まれています。

「先生」には、「尊敬されるべき正しい人」という意味が含まれています。

「学生」には、「先生より下の位にあり、未熟、従うべき人」という意味が含まれています。

 

(上記の意味は、「教育」のような概念に対する態度として、

教員・学生の双方がとる態度、または、実際にとっている態度を文章化したものです。

文章化された公式の定義ではありません。                       )

 

このような概念がある学校という箱に入った途端暴走し始めます。

あらゆることが、「学校・教育・先生・学生」という概念によって正当化されます。

こうして、暴力・暴言・おかしなことが正当化されます。

 

「閉じられた箱」とその中での「概念」によって、人が暴走し始めます。

これは、有名な実験でご存知かと思います。

それは、「ジンバルド実験」「スタンフォード監獄実験」です。

学校で起きている問題も、この実験と同じです。

つまり、学校=刑務所、教育=更生させる、

先生=看守、学生=囚人      の構図ができてしまっています。

 

「教員」は、「学生」を見下すような扱いしかできなくなっています。

上から目線ということは、同じ視点に立てないという欠点があるということです。

一市民として、関わることができないということです。

 

 

教員としてではなく、一市民として学生に関わるようにしてください。

一市民として関わらないことが、暴力・暴言・虐待などの根本原因です。

学生に対して、一市民として関わらないから、

学生が苦痛を感じる暴力・暴言などが起きるのだと思います。

そして、酷い場合、学生を殺害したり、自殺させたりすることに至ります。

教員を学生より上だから、何をしてもいいとなり、人権侵害が起きます。

教員が上なのだから、従わせるだとか、従うべきだとかは思わないほうがいいです。

特に、問題を抱えている学生には、一市民として関わってください。

問題を抱えている学生は、教員の「威圧的なところ・命令」などが、苦痛なのです。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-

23. 教員に注意していただきたいこと

教員が、苦痛を感じる学生に共感できないのは当然です。

それは主に、下記のつの理由が原因です。

 

1. かつて、教員にとって学校が、どうであったかを基準にしない。

 教員になっている人の多くは、かつて学校が居心地の良かった人だと思います。

 当時の自分と同じように、学生が学校を居心地よく思っていると思わないでください。

 それは、あなたが運が良かっただけです。

 

 学校が居心地良かった人は、学校の規則・習慣に疑問を持たないです。

 ですから「学校の何が苦痛なのかわからない・苦痛だという意見はわがまま」などとして、

 扱ってしまうのかもしれません。

 教員が学校・規則・習慣・教員を肯定的に見ることが、

 問題を抱えている学生を追い詰めるのです。

 教員の、かつて楽しかったという記憶が、問題を抱えている学生を理解できない原因です。

 成功体験ほど、人の目を曇らせるものはないです。

 教員ならば、かつて自分にとってどうであったかではなく、

 目の前の学生にとってどうであるかを見てください。

 

 

2. 今、教員である自分にとって学校が、どうであるかを基準にしない。

 今、教員である自分にとって学校がどうであるかを基準にすれば、

 教員から見た意味・合理性が全てになってしまいます。

 そして、意味・合理性を学生に押し付けることになります。

 

 

3. 教員から見た、意味づけ・合理性があるものほど、危険。

 教員から見て良いものほど、その裏で学生の人権を侵害していないか考えてください。

 学生を苦しめていないか考えてください。

 

 

4. 一市民として関わることを知ってください。

  教員が上で、学生が下とすることが、相互理解から遠のく原因です。

  多くの教員は、学生を「知識・人格・能力などの点で未熟」とし、

  教員を「知識・人格・能力などの点で成熟している」と考えているように思います。

  そして、「学生は、教員に従うべき・教員が導く」という考えは、多くの間違いを生みます。  

 

  このような権力関係があると、学生の言葉の少しも受け入れられなくなります。

  学生のいう言葉に関わらず、教員の方が上・偉いから正しいという押し付けになります。

  教員と学生に、上下関係は、ない方がいいです。

  言動から直して、一市民として関わってください。

  暴力・暴言・侮辱などは、論外です。

  信頼関係が破綻します。

 

  一市民として関わったら、教育が崩壊するという方がいそうですが、

  それは上下関係で押しつぶすことを教育と定義している方の理想が崩壊するだけです。

  そのような理想が相当歪んだものだと気づいてください。

  

  そもそも、既存の教育体制が、学生に押し付ける方法をとっています。

  文科省に決められたことを行う上で、取らざるを得ないのかとも思います。

  しかし、その中でも、可能な限り一市民として関わってください。

  特に、問題を抱えている学生に対しては、一市民として関わることが重要です。

  さらに、そもそも、既存の教育体制を変える必要があると気づいてください。

  既存の集団教育は、不幸なシステムだと知ってください。

 

  教育は、学生と教員が一市民として関わり、成り立つ教育で十分。

  一市民として関わる上で成り立つ教育で十分です。

  

  学生を下としたいがために、学生が持っていないことばかり見てはいませんか。

  学生が起こした問題の表面を見て、学生を全てにおいて、未熟としていませんか。

  問題の表面を見て、このような問題が起きるのは、

  学生が知識・人格・能力などの点で未熟だからだ、として思考停止していませんか。 

  そして、教員は正しいとし、指導・教育と称して、

  侮辱・暴力・暴言などを行なっていませんか。

  

  学生の起こした問題を深く知れば、

  問題を起こすところまで学生を追い込んだ、

  学校・教員・学生・規則・習慣などの存在が見えてきます。

  しかし、気づきたくない・考えたくない・考えられないので、

  学生が未熟だからだとしているのだと思います。

 

 

5. 学校は完成された場所ではない。

 教員たちが、前提として、「学校を完成された場所」としてしまうから、

 学校の規則・習慣が絶対に正しいとなり、そこに適応しない学生が悪いとなっています。

 そして、問題を抱えている学生が、苦痛を感じています。

 学校は、たくさんの欠陥がある場所だと認識してください。

 そして、それを改善する必要を感じてください。

 また、教員の多くは、既存の教育体制で居心地がいい状況に運良くいられた人です。

 そのような人たちが決める規則・習慣は、視野が狭く・人権侵害が起きます。

 教員は、自分たちの感覚だけで規則などを作らない方がいいと、気づいてください。

 

 

6. マジョリティに属し続けることは危険。

 仕事として教員を選ぶわけですから、

 教員の方は、幼少期から、学校においてマジョリティに属していたと思われます。

 そして、職業として、教員を選び、マジョリティに属しているわけです。

 長い間、マジョリティに属し続けると、他の考え方を受け入れられなくなります。

 また、マジョリティに属していれば、考えなくなるので、思考停止します。

 マジョリティは、考えなくても、その場の風潮に従っていれば、何とかなるからです。

 さらに、物事は人によって見え方が違うということを知る機会がなくなります。

 故に、教員の方には、自分の考えを絶対としている方が多いように思えます。

   

   長い間マジョリティにいるが故に、教員の感覚が学生全員に当てはまると思ってしまいます。

   当てはまらない学生が、悪いと思ってしまいます。

   しかし、教員にとって、学校がいい場所であっただけです。

   それを、全ての学生に当てはめるのは、間違いです。

   これを理解していない教員の方が多いように思います。

 教員のように、マジョリティに属し続けている人は、

 デリカシー・思慮に欠けるところがあると思います。

 悪意がなくても、思慮に欠けます。

   

 

 

7. 「教員は正しい、教員に従うのが教育だ」とするのは、やめる。

 端的に言いますと、教員が絶対に正しいということは、ないです。

 教員は自分を正しいとしたいのかもしれませんが、正しくないです。

 普通に間違っていたり、視野が狭かったりします。

 

 教員を正しいとすると、学生の言葉を受け入れられなくなります。

 頭から否定するようになります。

 全て、都合よく「学生のわがまま・自分勝手」ラベリングしてしまうことになります。

 

 教員を正しいとして、一方的に押しつぶすことでしか、

 学校が成り立たないのならば、既存の学校は相当野蛮な場所だということです。

 そして、その野蛮さは、従わせるということを教育としてしまっているから、

 生じるのではないでしょうか。

 既存の学校体制から見直した方がいいです。

 教育とは何かを考えてください。

 

 従わせることを教育としていると、その領域に包含されない学生に対して暴力的になります。

 例外的な学生は、必ず存在します。

 従わせることを教育としていなければ、

 そのような学生に対して、攻撃的になることはないでしょう。

 

 従わせるということを教育としている時点で、教育と言えるかどうか考えてください。

 従わせるという教育観から脱するべきだと思いませんか。

 違いを尊重する教育に切り替える必要性を感じませんか。

 全ての学生にとって、違いを尊重する教育はいいと思います。 

 

 従わせることを教育とするのが、もう時代遅れで、ナンセンスだと思いませんか。

 やめるべきだと思いませんか。

 

 

8. 暴力・暴言・侮辱などは、信頼を壊す。

 もう、言うまでもないですが、信頼関係が壊れます。

 そして、理解し合うどころではなくなります。

 指導・教育と称してすることは、やめてください。

 これは虐待です。

 日本の教員は、人権意識がない方が多いです。

 欧米・先進国から見れば、日本の学校で行われる指導・教育の多くは虐待です。

 

 

9. 教員として関わらない方がいい。

 残念ながら、学生が、教員という肩書きの人に対する、

 嫌悪感を持っている場合も少なくないです。

 これは、幼少期から、教員の横暴・理不尽を幾度となく受けてきたからです。

 嫌悪感を持って当然です。

 ですから、教員が何もしていなくとも、

 学生が教員を避けたり、嫌っているようでしたら、察してください。

 そのような学生に、教員として関わるとうまくいかなくなります。

 そのような学生は、教員という立場から生じる言動に嫌悪を抱いています。

 例えば、上から目線・暴言・暴力・管理するような態度etcを嫌悪しています。

 関わり始めの教員に罪はないですが、

 教員という立場からそのような言動が生じている場合が多いです。

 この場合、一市民として関わるのがいいです。

 しかし、他の学生に示しがつかない等の、体裁的な理由から、

 一市民として関われないのでしょうか。

 ここでもやはり、「教員が上で、学生が下」という構図を取り払う必要に迫られます。

 

 「従わせる」ことを教育とするのが、

 どれだけ問題を複雑化しているかわかっていただけませんか。

 「従わせる」を前提にしていると、問題が解決できなくなります。

 教員としてしか関われないと、問題が解決できなくなります。

 教員という視点を捨てる必要があると思います。

 何度も言いますが、教員ではなく、一市民になる必要があります。

 

 

10. プライドの張り合いは、いらない

 教員は、学生の意見を退けたがります。

 その意見が妥当であるかどうかに関わらず、学生のわがままとして退けたがります。

 しかし、その意見は、教員・学生が快適に過ごすために大切なことです。 

 教員の方には、学生の意見を受け入れて、改善したら、

 負けのように思っている方がいると思います。

 一体、何の勝負をしているんですか。

 学校は、プライドの張り合いをする場所ではないです。

 そして、受け入れて、改善したら、学生に負けるとか、舐められるとか、そんなことはないです。

 学生は、苦痛だし、変えて欲しいから、意見を言っているんです。

 プライドの張り合いをする教員は、器が小さい人だとか、信頼できない人だとされ、

 逆効果になると思います。

 

 

11.  ローカルルール優先が異常な場所をつくる

       規則は、市民社会憲法、法律のみで良い。

       ローカルルール優先になると、治外法権になってしまう。

  実際なっている。

 

12. 過去に受けた苦痛で今苦しんでいる学生もいる

  例えば、ある学生が、高校において、取り乱したり、

  非行に向かったり、不登校精神疾患になったりということがあるとします。

  この時、いろんな事情がこの学生にはありますが、

  その原因が、何年も前のこと、

  例えば、小学生・中学生の時に受けたイジメ・教員からの暴力・暴言etc、

  ということもあります。

  教員から見たら、その学生は、今、高校に在学している状況で、

  何も問題は起きてようには思えないかもしれません。

  そして、その通り、高校の現時点においては、問題は起きていないかもしれません。

  しかし、何年も前に受けた苦痛が、今になって、人の心を苦しめるということはあります。

 

13.  学生は、一人の人間として尊重されることにより、自立する。

  人は、ある年齢になるから自立するのではなく、

  権利・尊厳を持った人間として扱われるから、自立するのです。

  今の教員の接し方は、学生を自立に導きません。

  学生の権利・尊厳を踏みにじり、一人の人間として対等に扱っていないわけですから、

  それに対して、学生は、自立しないという選択をします。

  つまり、暴力・暴言などを行うことを選択します。

  現状の教育は、学生の自立を妨げています。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-

24.いかにして、学生の苦痛・不快をなくすかが重要

  教育界は、学生の学力向上に力を入れていると思います。

  そのための手段として、各科目の教員に、科目をわかりやすく説明することを、

  求めているのではないでしょうか。

  また、授業時間を増加させたり、補修などを行ったり、

  規定の点数に満たない場合は、

  罰則として再試験を何度も繰り返すということをしていませんか。

  これらの手段は、全て間違っています。

  学生に圧力をかけて学習を強要する方向に力を入れるのは、間違いです。

  学生が安心して、ストレスなく、落ち着いて、

  学習に迎える環境作りに、力を入れるべきです。

  学生がストレスを感じ、辛いと思う環境にいれば、

  教員がどれだけわかりやすく説明しても、意味ないです。

  また、時間を増やしたり、圧力をかけても意味ないです。

  そこが、わかっていない教員の方が多いです。

 

  私の場合、背の順という習慣が、ストレスになりました。

  すごく苦痛でした。

  学業どころじゃなくなり、鬱・不眠症になりました。

  

  選ぶべき手段は、いかに学生のストレス・苦痛・不快を取り除くか、

  いかに、学生にとって居心地のいい・安心できる環境を作るかです。

  そのためには、人権侵害の規則・習慣は、なくすべきです。

  

  教員は、付け加えたり、増やすことばかりを手段として選んでいます。

  しかし、いかに、減らすか、無くすかの方が重要です。

  

  正直、授業は基礎的なことを導入として教えてくれたら十分です。

  あとは、居心地がよく、安心できる環境があれば、各学生のペースで、学びます。

  そして、教員がわかりやすく工夫したり、時間数を増やす必要はないです。

  そして、学生が、自分で学ぶ能力を手に入れたら、

  教員はもう教えなくて良くなると思います。

   

  質問されたら、答えればいいのであって、

  教員が最初から最後まで黒板で説明する必要はないです。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

25.  協調性の定義を考える

学校現場では、協調性という言葉が重要視されています。

やたらに、何でもかんでも協調と言われます。

明らかに、不愉快で苦痛なことも「協調しなさい」と言って強要されます。

しかし、協調性というのは、苦痛を我慢することではないです。

以下、 現状の協調性と目指すべき協調性について考えてください。

私は、以下のように考えます。

 

・現状の協調性  :雰囲気・空気を読む。みんなと同じことをする。

          ただひたすら同じことを強要される。同調を強要される。

 

・目指すべき協調性:根本的な違いがある人たちが、協力をすることです。

          ひとりひとりが、根本的に違うという前提で関わる。

          何かに対して、協力するとき、重要になるのは「尊重」である。

          尊重することが大前提。

 

現状の協調性は、みんなと同じことをするというものです。

これは、似た者同士でのみ成り立ちます。

根本的なことが違う人にとっては、自分に合わないことを強要されることになります。

 

根本的に違う人が協力するためには、尊重が必要になります。

そうしないと、衝突が起きます。

 

前者が、現状の協調性です。

これでは、根本的なことが違う学生は、苦痛を感じます。

そして、苦痛・屈辱感が喧嘩・非行・不登校などの形で、表に出て学校中に波及します。

 

今後、協調性は、「根本的に違うもの同士が協力すること」と定義してください。

協調性の言葉の下に、一部の学生に苦痛を強いることはやめてください。

 

また、過剰に現状の協調性を強要されることは、協力を嫌う学生を増やします。

強要され苦痛を感じた学生は、他人と関わるのを嫌うようになります。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-

26. 教員の視点を優先することは、教育ではない。

背の順の問題提起に対して、

教員から見た意味・合理性をお答えとしていただくことが多々あります。

そして、その意味・合理性は、誰もが認めるべきだと思っているようです。

私は、この記事の各所で「背の順は、苦痛だからやめてほしい」と伝えています。

 

さて、苦痛を感じる学生に対して、教員から見た意味・合理性を押し付けることは、

教育でしょうか。効果があるでしょうか。

「苦痛だ」「つらい」と言っている学生に対して、強要して何の教育になるのでしょうか。

 

教育と虐待を混同していませんか。

苦痛を感じさせたら、憎まれるだけではないでしょうか。

人間関係が悪くなるだけではないでしょうか。

一度、そうなったら簡単には信頼関係は修復できません。

 

教員の視点を優先している限り、それは学生のためではないです。

教員のためです。

しかし、教員は、「学生のためにやっています。教育です。」と言っています。

結局、意味・合理性は、後付けだと思います。

先に、教員から見てどうしたいかがあって、

それに大義名分として意味・合理性を貼り付けているだけです。

 

教育を受ける当事者は、学生です。

それなのに学生の気持ちを無視するのは、教育でしょうか。

当事者不在で勝手に決めるのは教育でしょうか。

仮に、それを教育だとしても、学生達にいい効果がないでしょう。

学生にいい効果がないことを教育とするならば、もうどうしようもないなと思います。

 

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-

学校の構造的な欠陥と改善について

 

1.  既存の学校教育の構造的欠陥

(1対30の構造)

 もう、1人の教員が、30人程の学生をに指示する構造をやめにしたほうがいいです。

 以下、この構造を1対30の構造とします。

   要は、全体主義です。

 

 人間ひとりの人生経験なんてたかが知れています。

 一人の教員の考え・感性etcで包含できる学生の数は,多くて10人程度ではないでしょうか。

 にも関わらず、30人も見れるわけがないです。

 教員は学生を主観で評価します。

 明るいのは良い・友達が多いのは良いと言った具合にです。

 しかし、教員が持つ学生に対する評価は、必ずしも正しいとは言えません。

 学校という狭い世界での評価でしかありません。

 にも関わらず、クラスという場では絶対の評価になっています。

 

 その教員の考え・感性・評価etcに適合した学生はいいでしょう。

 しかし、適合しない学生は、苦痛を感じます。

 適合しない学生は、”合わせない”ではなく、”どう頑張っても合わせられない” のです。

 人には、身体・立場・精神etcを元とする根本的な違いがあります。

 だから、”合わせられない”のです。

 

 「そうはいっても、他の多くの子達は、合わせているだろう」という言葉がありそうです。

 その多くの子達は、ピッタリではなくとも、それなりに合わせられる範囲だっただけです。

 苦痛を感じない範囲だから、合わせてられるだけです。

 “合わせられない”学生は、根本的な違いにより、合わせられません。

 苦痛のせいで、”合わせる”ことは不可能です。

 むしろ、”逃れる”となるでしょう。

 

   人は、大体、人権侵害をされて苦痛を感じない限りは、

 無意識に社会・集団に合わせているように思います。

 学生が拒絶を示したら、何らかのことで侵害をしていると考えてください。

 

   そもそもですが、

 教員が一方的に、何を、どのようにするか決める必要はありますか。

 それを30人全員に同じようにやらせる必要はありますか。

 正直、無いと思います。

 30人で同じことを同じやり方でやっても、効率が良くなるわけでもありません。

 教員が、30人を一括管理しやすいからだとしか思いません。

 実際、管理しやすさが理由だと思います。

 1対30の構造をやめれば、学生を管理する必要はありません。

 すなわち、学生は、根本的な違いを尊重されます。

 自分に合わないことを教員に強要されることはありません。

 

―――――――

(1対30の構造と許可制度)

 1対30の構造は、許可制度を軸としています。

 この許可制度とは、

 教員が許可したもの(考え・感性・言動etc)だけが良しとされる状況のことです。

 学校は、この許可制度によって、学生の考え・感性・行動etcを検閲します。

 教員の審査を通過したことだけが良しとされます。

 

 この制度の危険性を説明します。

 まず、この許可制度を通過できるものは、教員の考えetcと近いものだけです。

 教員と同じような考えetcでない学生の考えは、潰されます。

 

 ここで疑問があります。

 教員の考えは社会において、絶対的、普遍的でしょうか。

 違いますよね。

 しかし、許可制度によって、多くの考えが潰されます。

 学生は、教員のあらゆる程度(感性・教育方針・考え・行動etc)に振り回されます。

 

――――――― 

(許可制度は危険)

 上記で述べた、許可制度は、学生が苦痛・悩みを、

 自己判断で回避・対処ができない状況を作り出します。

 

その例を以下2つ挙げます。

 1. いじめられている場合。

 危険・苦痛から逃れるために、自己判断で学校を自由に休んだりすることが難しいです。

 わざわざ、教員にいじめられているということを相談し、理解・許可をもらわないと、

 回避できない状況です。

 

 2. 私の場合は、背の順が苦痛でした。

 しかし、心のうちを他人である教員に相談する気にはなれません。

 悩みを相談できるほどの信頼関係を築けていない教員の方が多いでしょう。

 仮に信頼していても、人は悩みを簡単に相談したりしないものです。

 にも関わらず、私が背の順という苦痛から逃れるためには、

 教員に相談し、理解してもらい、

 私は背の順で並ばなくていい等の許可をもらわなければいけないわけです。

 私の安全は、他人に相談して、理解してもらい、他人が認めてくれないと守られないわけです。

 これは、異常だと思います。

 

 いじめの場合も、私の場合も、

 自身を守るために、教員の許可をもらわないといけない点で異常です。

 悩み苦しんでいる学生が、相談・理解・許可を通過することは難しいでしょう。

 疲れていて、体力・精神力がなくなっています。

 

 許可制度に多くの方は、違和感を感じないかもしれません。

 それは危険から回避・対処をしないといけない状況になったことがないからです。

 しかし、実際は、学生は自身の安全を教員に委ねているわけです。

 

 

―――――――――-

また、許可制度は、実は、禁止制度です。

何故なら、以下2つが壁になるからです。

 

(許可制度の壁)

 ・主に3段階の手続き(相談・理解・許可)を通過しなければならない。

 ・3段階の過程は、教員のあらゆる程度(感性・教育方針・考え・行動etc)任せで決まる。

 

―――――――――

(「相談」の壁 )

問題を抱えている学生が教員に相談する大変さを想像してください。

多くの場合は、以下、相談をしない場合が7つあります。

もちろん、以下以外の場合もあります。

 

1. 教員を嫌いな場合、相談はしない

  これは、人格的に嫌いだという領域です。

  当然、嫌いな人に自分のことを相談しないです。

 

 

2.  教員が苦痛の原因の場合、相談はしない

  何故ならば、

  苦痛を感じさせている原因と助けを求める対象が同じだからです。

  私の場合、苦痛を感じさせる原因は、背の順を強要する教員でした。

  そして、助け・改善を求める対象も教員でした。

  苦痛を感じさせている原因に助けを求めないといけないのは、すごく屈辱です。

  加害者に助けを求めないといけない状況だからです。

  つまり、敵に媚びないといけない状況だからです。

 

 

3.  教員が理解のない人の場合、相談はしない

  普段の言動から、相談して理解されるかどうか大体わかります。

  相談しても理解されないだろうということで諦めます。

  相談して、理解されなかったり否定された時に、

  余計に傷つくことを想像し、言わないのです。

  相談すれば、余計に状況が悪くなるかもしれないという思いもあります。

      個人的なことを、公にされる場合もあります。

  何度も述べていますが、教員の多くは、学校が楽しかった人たちです。

  学校を肯定的に捉えていることが、言動から見てわかります。

  表情や雰囲気から感じ取れます。

  問題を抱えている学生は、それを察知し、教員に話しても伝わらないと考えてしまいます。

  そもそも、問題を抱えている学生にとって、教員というのは相談相手として最悪の人物です。

  学校に対する考えがあまりにもかけ離れていると、言葉が伝わりにくいです。

  学校に疑念を抱いて、改善すべきだと思っている人物が、相談相手としてふさわしいです。

 

 

4.   教員が罰則etcを行う人の場合、相談はしない。

  問題を抱えている学生の多くは、

  取り乱す・遅刻・欠席・不登校・非行・ケンカetcとして苦痛を表に出します。

  これに対して、教員は、罰則等を行う場合が多々あります。

  学校で何らかの苦痛を受けているのに、そこに罰則を行うのは、明らかに間違いです。

  表に出た反発行為にのみ目を向け、学生の”わがまま”とラベリングするのは、間違いです。

  このとき、罰則は、意味をなしません。

  そもそも、罰則というのは、意味をなさないと思います。

  反発行動の根本にある苦痛を取り除くことが重要です。

  罰則は、憎しみを生み、さらに問題が深まります。

  何よりも、罰則を行うような教員には、相談はしなくなります。

  罰則は、意味をなさないだけでなく、信頼関係もなくなります。

 

 

5. 他人に言いたくない場合、相談はしない

  問題はあるけども、それを言いたくない場合があります。

  個人的なことである程、他者に言いたくはありません。

    コンプレックス・LGBTQ ・家庭のこと etc 色々あります。

  そもそも個人的なことを、教員に相談しないといけない状態に疑問があります。

  本来は、自己判断で、回避・対処できればいいのです。

 

 

6.  言語でうまく説明できない場合、相談はしない

  学生は、10代です。言語による説明能力に長けている人は珍しいと思います。

  ましてや、学校で主張する機会のない教育を受けているのですから、

  自分の心情を説明するのは難しいかと思います。

  また、問題を抱えてる学生は苦痛で冷静に思考できません。

 

 

7. 心身ともに疲れ果てている場合、相談はしない

 問題により心身ともに疲れてしまっている場合は、何もできません。

 いわゆる、うつ病etcの状態です。

――――――――――-

(「理解」の壁 )

以下、理解の壁が4つあります。

もちろん、以下以外の場合もあります。

 

  1. 教員が、学校肯定派の場合

  学生の説明が理解されない壁になることの大体は、この場合です。

      教員の多くは、学校が楽しかった人ですから、

  問題提起をされても全く共感できないのだろうと思います。

  学校肯定派と否定派の壁は厚いです。 

  苦痛を抱えて、相談した学生がの言葉を理解できる教員は少ないと思います。

  学校は楽しいものだという教員の主観が邪魔して、理解できないと思います。

 

2.  教員にとって、相談してきた学生が気に入らない場合

  教員が、自分が気に入らない学生を邪険に扱うことは多々あります。

  このような場合、学生の相談を頭から否定して扱うでしょう。

 

3.  教員が、学生のどんな意見も「学生がわがままを言っているだけだ」として扱う場合

 この場合も非常に多いです。

 学生が、どれだけ論理的に説明し、それに妥当性があっても、

 全ての言葉を「学生のわがまま」としてしまっている教員が多いです。

 ゆえに、理解されません。

 

4. 教員が言語によるコミュニケーションを得意としない場合

 そもそも、対話を得意としない人が教員になっていることが、異常だと思います。

 人の話を理解し、その人の立場を尊重することのできない人が多いです。

 このような方は、体育教員に多いと思います。

 

―――――――――――-

 

(「許可」の壁)

多くの場合は、以下、許可の壁が2つあります。

もちろん、以下以外の場合もあります。

 

 1. 一人の例外も認めない方針のせいで許可が出ない場合

 学校は、みんなに同じことを同じようにやらせます。

 相談・理解を通ったとしても、例外を認めない方針のせいで、

 許可が得られない場合があります。

 

2.  教員の立場・体裁ゆえに許可が出ない場合

 教員の立場・体裁を優先して、許可が出せない場合があります。

 許可を出してしまったら、教員の評価が下がるetcの理由で学生に我慢を強います。

 

 

――――――

以上のように、多重に壁があるため、

多くの学生は、第一段階の「相談」をしないです。

そして、許可を得るのを諦めてしまいます。

この意味で、許可制度は、意見や提案を諦めさせる制度だとさえ思います。

 

 つまり、1対30の構造が持つ許可制度を軸にしている限り、

 許可制度の壁が存在します。

 

 第一段階の「相談」をしなければ、始まらない。

「相談」をしたとしても、次は「理解」・「許可」が阻みます。

 さらに、「相談・理解・許可」は、教員のあらゆる程度任せ。

 つまり、

 個性・感性、心身の安全は、教員のあらゆる程度任せなわけです。

 教員が、全知全能ならば、成り立ちますが、実際は違います。

 学生の個性・感性・安全etcが守られるかどうかは、

 教員の当たり外れで決まる賭けのようなものです。

 

 許可制度は、1対30の構造を用いてる限り、なくなりません。

 1対30の構造の持つ許可制度の日常的な例が、

 「先生、お手洗い行っていいですか。」という言葉です。

 本来、これは個人的なことです。

 各自で決めて行動することです。

 にも関わらず、許可を取らなければ、いけません。

 こんな細部まで、教員のあらゆる程度任せなのです。

 

 お手洗いの許可ならまだいいですが、

 許可制度は、際限なく心身を支配します。

 遂には、心身に危険が及んでいる時にさえ、許可をもらわなくてはいけません。

 許可制度によって、学生が自己判断で、回避・対処することを難しくしています。

 

本来は、

教員の許可なく、自己判断で回避・対処できるのがいいです。

そのためには、教員が学生を事細かに管理する立場から降りなくてはいけません。

教員ではなくサポーターの立場になっていただきます。

つまり、教員は、要りません。

教員がいることで、危険から回避・対処できなくなっている学生は多々います。

教員は、助けを求める対象ではなくなっています。

教員は、立ちふさがる敵になっています。

 

学生が自己判断で、危険から回避できるように、

教員は、「そもそも、学校は、強制ではない。」と頻繁に言うべきです。

「つらくなったら、許可なく自由に休んでいいよ。」と言うべきです。

「許可を取らずに、自己判断で回避・対処するように」というべきです。

学校を出入り自由なドライブスルーのようにしないといけません。

 

「そんな自由な場所にしたら誰も来なくなる」という方がいそうです。

誰も行きたがらないような場所なのが間違いなのであって、

行きたがらない子供達は正常です。

そこに無理に行かせるから、いろんな問題が起きるのです。

 

本当は、教員がそのようなことを言わなくても自己判断できるのがいいのですが、

許可制度により心身まで支配されているので、このように言う他ありません。

 

 

――――――――――――-

(許可制度と同調圧力)

1対30の構造の持つ許可制度は、同調圧力を生み出します。

教員が好む、感性・考え・言動のみが許可されるからです。

同調圧力は、教育現場での問題の発見を遅らせます。

また、教員・学生双方が、いろんな考え・立場があることを知る機会をなくします。

これにより、教員は、自身の考えが絶対だと思うようになります。

また、学生は、みんなと同じにしないといけないと思うようになります。

「人は根本的に違う」のが前提なのに、「人は同じだ」という嘘を

 

―――――――――――-

(許可制度と多様性)

1対30の構造の持つ許可制度は、多様性と相反するものです。

どれだけ「多様性」と言っても、構造に阻まれます。

やはり、1対30の構造に問題があると思います。

 

―――――――――――――

(1対30の構造の図形的説明)

 1対30の構造を“図形的に”説明します。

 一人の教員という一つの軸があります。

 この軸から近ければ近いほど恩恵を受けます。

 だから、30人ほどの学生は中心に集まります。

 すると軸の周りに、円ができます。

 軸から遠い位置、すなわち円周の位置には針があります。

 刺さると痛いわけです。

 この針は、私の場合ならば、背の順による苦痛です。

 他の人の場合ならば、その針は、イジメ・体罰etcかもしれません。

 学校で行われている習慣による苦痛かもしれません。

 それぞれの針により苦痛を感じます。

 

 円周の位置にいる学生は、苦痛なので、円から抜け出します。

 それは、非行・不登校であったりします。

 これにより、問題は解決したでしょうか。

 否、解決していません。

 円から抜け出した学生は、不本意な形で苦痛から逃れただけです。

 

 数人抜け出したことで、少し小さい円になりました。

 次は、この少し小さい円の円周に位置する学生が犠牲になります。

 

 この図形を角度を変えてみてください。

 実は、この円は、円錐です。

 なぜかというと、軸に近いほど、権力や立場が強いとされるからです。

 ピラミッド型な訳です。

 このピラミッドをスクールカーストと呼びます。

 これは、イジメ・非行・不登校etcの問題につながります。

 

 つまり、現在の公教育は”構造的に”犠牲者を幾らか出します。

 犠牲者というのは、非行・不登校・イジメ被害者・何らかの苦痛を抱えている学生etcです。

 

 学校における問題の多くは、

 1人の教員が、30人程の学生に指示を出す構造にあります。(1対30の構造)

 この構造を使う限り、問題は何度でも起こります。

 そろそろ、1対30の構造の欠陥を認めて、この構造を捨てる時だと思います。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

2. スクールカースト・学校問題

 学生間において、ピラミッドヒエラルキーが出来上がる危険性を説明しています。

 これが、イジメにつながります。

 この構造が発生する原因は、クラス制度・1対30の構造です。

 また、教員が中心となって、クラスを取り仕切るから、この構造が発生します。

 教員がこの構造・イジメに加担しているのです。

 教員の多くは、クラスの中心人物がクラスを雰囲気により、

 運営することを期待しているでしょう。

 しかし、これは、やめるべきです。

 これがイジメなどを生みます。

 

私が説明するよりも、わかりやすくまとめられている記事がたくさんあります。

以下は、スクールカースト・イジメを構造的に説明しています。

ご覧ください。

 

スクールカーストに関する参考記事をいくつか載せておきます。

https://dot.asahi.com/dot/2018040300069.html?page=1

http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/50604/1/015_020_w1402.pdfhttps:// archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BS/0040/BS00400L043.pdf 

 

学校問題に関する参考記事をいくつか載せておきます。

非常にわかりやすく学校のいじめなどの問題の解決方法を、構造的に解説してくださっています。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50919

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52631

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56128 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55879 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55712 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53333 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53330 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52633

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52598

https://socialaction.mainichi.jp/cards/1/19 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

3. 新しい構造の導入

この項目は、書いている途中です。

飛ばしてください。

 

 これまで説明した、 1対30の構造(許可制度)について、まとめます。

 以下が、 1対30の構造(許可制度)の特徴です。

 

 1.  1対30の構造(許可制度)は、

      教員のあらゆる程度(感性・教育方針・考え・行動etc)任せです。

      この構造の秩序は、教員によって大きく変動する危険なものです。

 

   2. 1対30の構造(許可制度)は、個性尊重・多様性を阻みます。

 

   3. 1対30の構造(許可制度)は、 危険な状況から自己判断で回避・対処できなくなります。

 

 

現状の学校は、発言と行動が分離したような状況です。

発言を「個性尊重・多様性尊重」とし、行動を「1対30の構造・全体主義」としています。

つまり、言っていることと、やっていることが一致していないわけです。

どう頑張っても、現状の構造では「個性・多様性尊重」は、限界があります。

  

新しい構造は、

構造によって、秩序・個性尊重・多様性尊重すべきです。

以下に、新しい構造を2つ挙げます。

 

以下は、文科省主導で改革しないとできない領域だと思います。

だからといって、書く意味はないとは思いません。

いろんな構造を提案して損はないと思います。

 

 

 

自習室・図書館型

塾予備校型

少人数制

授業

なし

または、映像授業

映像は、塾のものを使えばいい、各自がPCで受ければ良い

あり

ライブ授業、または、映像授業

映像は、塾のものを使えばいい、各自がPCで受ければ良い

あり

ただし、自由に意見を言える環境にする

 

一クラスの人数

 30人程度

30人程度

10人程度

規則

憲法・法律を遵守

刑事事件が起きた場合、警備員に止めてもらう

そして、警察に対応してもらう。

左に同じ

左に同じ

校則・習慣

なし

校則・習慣は作らない

なぜなら、ローカルルール優先になってしまうから、黒染め強要・背の順のような人権侵害が起きる

左に同じ

左に同じ

指導・教育と称しての、暴力・暴言・恫喝

学生による暴力行為etc

刑事事件として、即、警察・司法にかける

左に同じ

左に同じ

先生・教育・指導という概念

なし

先生→スタッフ・サポーター

教育・指導と称しての暴力・暴言→傷害・暴行・恐喝・脅迫

左に同じ

左に同じ

 

 

 

 

理念

各人が、自分の軸を持って、考える

一市民として関わる

個性・多様性尊重

左に同じ

左に同じ

 

警備員

常駐 多いほうがいい

各フロア巡回

左に同じ

左に同じ

クラス

なし

なし

あり

カウンセラー

常駐 多いほうがいい

問題を抱えている学生は、カウンセラーに任せる

左に同じ

左に同じ

教員

サポーター・スタッフ

質問されたら答える役割

その他に対してはとやかく言わない

事件・問題については、司法・警察に届け出る

 

民間経験・海外留学経験者を中心に教員になってもらう

5年ごとに民間と学校を行き来するシステムにする

 

左に同じ

左に同じ

体育

なし

スポーツしたい学生は外部でクラブ等に参加すればいいい

左に同じ

左に同じ

体育教員

なし

暴力・暴言を行うのでいらない

 

教育の本質から外れた思想などを持ち込むからいらない

 

学生を抑圧するからいらない

 

そもそも、柄の悪い人間は、学生の教育にはふさわしくない

 

社会から見ても、体育会系の文化は害悪、それを生み出す学校の体育教員は害悪

左に同じ

左に同じ

整列・号令・

行進・集団行動

なし

軍隊的なことは、やめるべき

全体主義集団主義ができてしまい危険

軍隊的な慣習と暴力は、密接に関係している

左に同じ

左に同じ

集団主義全体主義

スクールカースト

イジメ

意見を言えない状況などを、作るからやめるべき

左に同じ

左に同じ

部活

なし

やりたい学生は、外部のクラブに入る

教員にとっても、時間に余裕ができて良い

 

左に同じ

左に同じ

イベント、体育祭・

文化祭

なし

学生同士がべたべた関わり合い傷つけ合う環境ができてしまう

 

左に同じ

左に同じ

全校集会

なし

体育館に集まるのは、時間と労力の無駄です。伝えたいことがあるならば、 校内放送で伝えればいい、各教室にモニターで放送すればいい、各担任が教室で読み上げるなりすればいいです。

いくらでも簡易化できます。

左に同じ

左に同じ

係制度

なし

代議委員等の誰かをリーダーとした制度は、その学生を中心としたスクールカーストが出来上がり、イジメなどにつながる

左に同じ

左に同じ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下に、一応、詳しく説明しときます。

 

・末端・外周というものを物理的・構造的に作らないようにする。

 背の順・成績・順位など概念的に末端が存在し、

 その末端に優劣・良し悪し・侮辱的意味づけが行われないようにする。

 そのために、人を身体的なことで並べたりしない。

 成績や順位を貼りだしたりしない。

 並べたり、順位づけする文化を無くしてください。

 また、スクールカーストにより外周を作らないようにするために、

 学生に割り当てる係制度などは、無いほうがいいです。

 

・規則などを破った学生がいる場合、その学生に理由を聞き、その学生が改善するように、

 サポートしたり、学校の規則・習慣を変えれば良いです。

 全ての学生に対して、新しい決まりを強要するのは、間違いです。

 

・クラス制度は、学生同士の距離が近くなりすぎます。

 これは、イジメ・権力闘争につながります。

 人の流動性がない場所では、いじめが起きやすくなります。

 これは、想像できると思います。

 

・体育祭・文化祭・など多くの行事が、「みんなで一緒にやる」を掲げています。

 これらは、学生間のベタベタした人間関係を生み出します。

 全体主義を生み出します。

 これがイジメ・スクールカーストなどにつながります。

 あらゆる行事は無くして、授業を受けて帰るだけの場所にしてください。

   授業以外も行わないと人間関係を育めなくなるという方がいそうですが、

 日本の学校の人間関係は、人間関係としては、失敗例でしょう。

 そんなにいい人間関係を作れているでしょうか。

 無いと思います。

 社会で求められる人間関係を行えれば十分です。

 連帯責任・集団行動・行進etcいらない人間関係を押し付けないでください。

 

・背の順にしてもそうですが、学生を苦しめる多くのことは、本来必要のないことです。

 学校を、もっとシンプルに、科目を学ぶだけの場所にしてください。

 ただし、この科目に、体育は必要ないです。

 体育は、学生を過剰に威圧し、強要する科目になっています。

 また、体育教員には、学生を対話により尊重することのできない人が多いです。

 日本の体育大学・体育学部などの体育会系の文化は、

 縦社会で、権力・暴力で相手を踏みにじる文化だからです。

 そのような考え方の人が体育教員には多いです。多すぎます。

 そのような人は、教育機関には必要ありません。害悪でしかないです。 

 威圧したり、暴言・暴力を行ったりという、他者を尊重できないことは、

 すごく恥ずかしいことだとわかりませんか。

 人間として、最悪のことをしているとわかりませんか。 

 

・淡々とした学習の場にする。

 学生がベタベタコミュニケーションを取らないで済むような、

 いわゆる、一市民としての関わり方です。

 

・学校で起きるいろんな問題に対して、学生が幼稚だから起きると主張する人がいます。

 しかし、それは違います。

 学生を抑圧しているから、学生が自立した大人になれないのです。

 学生を尊重すれば、学生は、しっかりとした行動を行います。

 

・日本の教員には人権意識や思考力がないです。

 当然です、人権意識・思考力がない環境で居心地が良かった人が、

 教員になるのですから。完全に、悪循環が生まれています。

 民間経験・海外経験のある人を中心に教員なってもらほうがいいです。